神がわたしたちの中で何かを為そうとする時、わたしたちは成長する。だからと言って、成長する時に痛みが伴わないということではない。成長する時、心や感情や体の中で新しい部分が目覚める。その時、わたしたちはしばしば痛みを感じる。わたしたちは、そのように成長することに慣れていない。しかし、そのような痛みは驚くべきことではない。 ―― 新しい運動を始める時はいつも、わたしたちの肉体は筋肉痛を感じる。アスリートはトレーニングを始める時、ひどい筋肉痛を覚悟する。キリストに献身し、キリストの戒めに服従する時、わたしたちは自分自身を超えて行く。その時、わたしたちは自分が成長するのを感じ、痛みを覚える。しかし、その痛みは、拷問(ごうもん)や刑罰がもたらす痛みとは全く違う。成長する時に味わう痛みは、後に後悔を残さない。その痛みは健康に導くもので、病気やノイローゼにさせるものではない。
このことについて述べるにはたくさんの時間が必要だ。しかし、あなたは他人の話を聞こうとはしない悪癖をつけてしまった。それで、このことを分かってもらうことは難しいと思っている。なぜなら、いつもどうしても聴こうとしないのだから。本当は、もうあなたは自分ひとりで学ぶべきだが、なお一緒に座ってくれる誰かを必要としている。神についての基本的な事柄をもう一度、最初からやり直す必要がある。つまり、ずいぶん前から、あなたは固い食べ物を食べる年齢になっているのに、あなたはまだ、幼子のミルクを必要としているのだ。
―― ヘブライ人への手紙5章11~12節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。