9月11日「神学者を身近に」

 身近に親しい神学者を持つことを求めて祈るべきである。なぜなら、神学者こそいろいろな最も難しいことに対応してくれるからだ。「自己を滋養する祈り」は最も難しいことの一つである。「善意あふれる友人」を求める祈りも難しい。あるいは「悪魔の嘘」も厄介である。というのも「悪魔の嘘」はいつも、自分の私利私欲に最大の関心を持ち、それを追い求める。そうしたことに対処するために、神学者を身近に置くことを祈り求めなければならない。わたしたちは「神に関心を抱く」よりも「自分自身に関心を持つ」ところがある。「あのことが起こった」「あのことは起こらなかった」と、そんなことに夢中になるのが、わたしたちである。自分の感情と意志との間に、大きな不一致があることに当惑する。また、祈りに専念してみる時にも、「そんなことに意味があるのか」と道徳的観点からの偽装した非難の声が聞こえてきて、動揺してしまう。あるいは「特権的な霊的エリートになる方法がある」とうそぶく秘密の宣伝を見て、魅了されてしまう。

 祈りは神に関することなのだ。自分自身に関わることではない。「自分自身」からではなく「神」から、わたしたちの思考・想像力・理解を始めるように訓練する。 ― そこに、神学者の務めがある。
 

神から始めなさい ―― 学びの第一ステップは神にひれ伏すことだ。そこにある知恵や学びを軽蔑するのは、愚かな者だけなのだ。
 ―― 箴言1章7節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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