わたしが味見程度に神の一部を経験するとき、奇妙なことが起る。それは最初にエデンの園で起こり、その後も続いている。「神を体験する」 ―― それは総体としてエクスタシーという状態をもたらす ―― そこには誘惑が伴う。「その経験を『神として』再現しよう」という誘惑だ。「神を知ること」が「神になろうとする貪欲」へと堕落する。「神に愛されていること」それ自体が「神のようにやってみたいという欲望」へと歪曲される。神が支配している世界を垣間見みると、自分ももしかするとこの世を支配できるかもしれないと勘違いしてしまう。神の面前で、神との人格的な交わりを放棄し、人格もないような、ただ、ずる賢い蛇と付き合うようになる。そうして、輝く神の御顔から逃げる。そして、他者を支配し自分自身に神的力を得ることが許され、当てにならない宗教の世界に逃げ込むことになる。もし、わたしが神的力を得て、その輝きを自分自身に与えようとするなら如何になるのだろうか。その瞬間、間違いなく確かに、神の御顔が見えなくなるように願い、主の臨在から逃げて、自分のプライドを高める場所を探し、どこかで神的力を得ることが出来る場所を探すようになるだろう。
使徒たちが手を置くことで御霊を与えられるのを見たシモンは、金を財布から出して、興奮して言った。「あなたの秘密をわたしに売ってくれ!
そのやり方を見せてくれ! いくら欲しいか。
値段を言ってくれ!」
ペトロは言った。
「お金と一緒に地獄に落ちろ! あり得ない! ―― なぜ、神の賜物を買おうとするのだ⁉」
―― 使徒言行録8章18~20節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。