7月30日「疎外の只中で」

 「追放され放浪する」という本当の意味はいたくない所にいるということである。わたしたちは自分の居場所から引き離されている。見慣れた場所に住むことが許されていない。近所に感謝して暮らせる場所に住むことは許されていない。自分たちに一番しっくりしている場所から追い払われている状態なのだ。「脱臼」した時の経験を思い出してください。全ての繋がりを失う。接続点がどこにもない。何年もの時間をかけて、幾千もの小さなことを一つ一つ組み上げて、そうして「居場所」は構成される。慣れ親しんだ「しぐさ」「習慣」「儀礼」「言葉遣い」というものは、そうしたものだ。それが全て失われてしまう。「言葉」「習慣」「天候」「物語」というのもある。それは数世代かけてやっと慣れ親しんだ土壌のようなもので、わたしたちの生活はそこに根を張っている。そこから、わたしたちの生活が剥ぎ取られる。そして、わたしたちの生活は粗野に扱われ、見知らぬ土地に放置される。それが「追放され放浪する」という意味なのだ。そう放置された場所で案外高い生活水準を誇るかも知れない。天候がより過ごしやすいかも知れない。でも、そんなことは、どうでもよいのだ。そこは「居場所」ではないのだから。

 だがこのまさに居心地の悪さによって、わたしたちの現実が新しく示されることがある。事故や悲劇、惨事はどんなものであれ、わたしたちの大切なことに気づかせてくれる。その大切のこととは、つまり「世界は意外性に満ちている」ということだ。現実の世界は、日常生活を通して知る世界よりも、遥かに広大であること ―― このことは、事故や悲劇や惨事を通してのみ、知り得る。痛みのある所に、あるいは、疎外感のただ中に、自由を見出す感性が生まれる可能性がある。

わが友よ。この世にはあなたの居場所はない。
居心地をよくしてはいけない。
自分自身を喜ばすために、
  魂を犠牲にしてはいけない。
地元の人々の中で模範的な生き方を示しなさい。
そうすれば、そのことによって、
  差別する人々の誤りを明らかにすることになる。
彼も神の味方になり、
神が来たるその日を共に祝うことになるだろう。
―― ペトロの手紙(一)2章11~12節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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