わたしたちは全て罪人である。「よくなろうと二倍の努力をして、罪人であることをやめよう」とはしない。それが、わたしたちなのだ。「公明正大に生きる」とは、どのような生き方だろうか。それは自分自身が本当は何者であるかを隠さない生き方である。あるいは、自分の名声を飾ったり、自分の心をごまかしたりしない生き方である。自分がどういう者で、何を考え、どう感じたか、何を行ってきたかを、わたしたちは明示できる。わたしたちは神や両親や社会に対して抱く虚しさに精力を消耗する必要はない。空想的な言い訳を作り上げる必要もない。それは何と爽快なことだろうか。
わたしたちは罪人(わたしたちとあの人たちも)としての記録をもっている。それは実に長く惨めな記録だ。神はわたしたちのために栄光ある人生を用意し給うた。しかし、その人生を生きるためには、まったく足りないわたしたちだ。だから、そんなわたしたちのために、神が御業をなし給うた。透き通るような優しさからその御心をなし給うた神は、わたしたちをご自身のそばに引き寄せ、正しい場所へと戻してくださった。それこそ、生粋の賜物だ。
―― ローマの信徒への手紙3章23~24a節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。