6月18日「幸せ」

 それにしても「幸せ」という言葉は、辞書で調べて理解出来る類ではない。そして、実際、クリスチャンの生活も本からは学ぶことは一切出来ない。「幸せ」を理解し手に入れるためには「見習い修行」以上の何かが求められる。数年にわたり献身した人々の周辺を見れば「幸せ」とは何であるかが分かる。性別を問わず誰でも献身している人々は、その全ての生き方を通して「幸せ」を体現している。言葉によって説明は出来るが、それは「名人」から技術を盗むようなものである。つまり、ほとんどは、見習い修行者が「名人」に師事し、毎日直接に深い交わりを通して、微妙な方法で、確実にコツのようなものを盗むこと。それには特殊なタイミングやリズム、あるいは「接触」のような何かがある。言葉で「幸せ」を説明できるタイミングも、おおよそ、そのような感じで訪れる。

 パウロがフィリピの町のクリスチャンに書いた手紙がある。それを読んでみれば「まさにそのような名人と、わたしたちは共にいる」ことが分かる。パウロはわたしたちが幸せになることが出来るとか、幸せになる方法を述べてはいない。パウロはただひたすら、端的に間違いなく、幸せだった。彼の周りにある何ものをも喜びを与えてはいない。パウロは牢獄から手紙を書いている。敵対者がいて、いつもパウロの仕事が攻撃に晒されていたのである。イエスの僕として20年間にも及ぶ厳しい旅をして疲れ果てていたのだ。そして、いくばくかの平安を得ようとしていたのだ。
  

わたしの心持は「ずっと祝宴の中にいる」思いだ。これからどうなるかを、知っているからだ。あなたたちが示してくれる忠実な祈りそしてイエス・キリストの御霊への応答に支えられた寛大さに感謝したい。それらを通して、キリストの御旨に叶った全てのことが、一つずつ、わたしの内に、わたしを通して、なされていくのだ。
―― フィリピの信徒への手紙1章19節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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