6月14日「わたしたちの敵のために祈る」

 イエスはその最期に敵について語った。それは詩編を引用したものである。イエスは「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈れ」【マタイ5章44節】と言った。敵を愛することとは、その人数の多寡(たか)はともかく「敵がそこにいる」ことを知り、「誰が敵か」を判別して、初めて実行される。「敵」というものが人生の現実として問題となっている。とりわけ信仰に生きている人々には、特にそうなのだ。「敵がいる」こと「敵は誰か」が分からないほどに世間知らずであってはいけない。それは余りにも危険である。「暗闇の中を行く疫病」と「真昼に襲う病魔」【詩編91編6節】に無防備ではいけない。「悪い者から救ってください」【マタイ6章13節】と祈らなければならない現実を忘れる浅はかさは避けなさい。

 神は「憎しみ」を用いて「命と救いを害する敵」がいることに気づかせる。「憎しみ」に巻き込まれることで、わたしたちは「命と救いが脅かされている犠牲者」へと心を具体的に寄せて行くことになる。そして次のことに気づかされる。つまり「発火点の根源」として「憎しみ」は働くが、「判断というエンジン」を動かす燃焼として「憎しみ」は、実際不適切なもの。「憎しみ」がわたしたちの中に惹き起こす情熱は、ただ、愛によってのみ潤沢に持続できる。

 次のことに気をつけてください。「愛のうちに生き敵のために祈ること」は「戦略」となされるとは、全くあり得ないということ、を。そうして「敵」を「よき友」に変えようとすることは絶対に考えてはいけない。敵は最後までわたしたちの愛を撃退しようとする。愛によって、ほとんどの場合、敵の怒りは倍増する。「弱さと赦しと応答」を求めるのが「愛」なのだが、「力と支配と服従」を求めるのが「敵」なのだ。イエスを愛し祈った「敵」がイエスを殺害したのだから。

あなたの敵が 飢えていた
昼食を買いに 行きなさい
喉が渇いていたならば
お水を汲んで あげなさい。
その親切は 染みわたり
あなたの敵は驚いて
神が あなたのことを
いつまでも 守るでしょう。
―― 箴言25章21~22節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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