自分に必要なことを考え、自分の思い通りに祈る。
―― そういうことを、一般的に祈りだと考えがちである。まず「神に向かう深いところからの願いがある」という経験をして、それからわたしたちは祈り始める。例えば、感謝が心の中から吹き出すような思いから、わたしたちは祈る。あるいは「罪責が神の御前に山のようにある」という事実に打ちのめされてから、わたしたちは神に祈る。しかし、礼拝をする時には、わたしたちは、そのようには祈らない。「自分が主導して祈りに至る」ことはしない。何かを経験して祈りが促されるということはない。そうではなく、まず誰かがわたしたちの前に立って「祈りましょう」と言い、それから祈りへと進む。自分で祈りを始めるのではない。自分以外の誰かが祈りを始める。自分は背後か傍らに退く。わたしたちの自我はもはや先導する立場にはなく、中心でもない。
さあ、ここで礼拝をささげよう。
御前に出て、跪き
創り主なる神を礼拝しよう。
ああそうだ、この方こそがわれらの神だ。
わたしたちこそ、この神に
牧され、養われる羊である。
―― 詩編95編6~7節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。