6月2日「黙想と」

 わたしたちが祈ろうとする時、神が語りかける御言葉に応えようとする時には、神の全ての御言葉は次のような特徴があることに気づく。その特徴とは「神の御言葉は「律法:トーラー」であり、それはわたしたちを目指して語られている」ということである。神の御言葉とは情報が欲しい時に図書館にある参考文献を棚から取り出すような参考書ではない。神の御言葉には退屈で学者ぶったものは一切ない。神の御言葉は全ての者を創造し、救うものである。神の御言葉は、わたしたちがどこにいても、わたしたちの心に迫ってくる。

 わたしたちがこれを知るや否や、神はわたしたちに語り始め、自然に喜びが湧く。旧約学者のジェイムズ・ルーサー・メイが「主のトーラーを喜び、主のトーラーに関心を寄せる人にとって、詩編は祈祷書となる」と述べている。詩編の御言葉はあたかもわたしたちが受験勉強のように、勤勉に人間味がないように学ぶものではない。その御言葉はわたしたちが不注意で境界線を越えたり、しきたりを破ってしまう言葉ではない。神の御言葉とは、わたしたちが「摂取する」言葉である。 ―― すなわち、わたしたちの中に救いのエネルギーを与え、新しい命を形成させるために意図された御言葉である。この喜びは「黙想(メディテーション)」となる。すなわち「トーラーの黙想(メディテーション)」である。黙想する(hagah:ハガー)とは肉体を使う仕草を表す言葉である。「黙想:ハガー」の言葉は「不平を言うこと」や「つぶやく」という意味を含む言葉である。すなわち神の御言葉が朗読される時、わたしたちの肉体が喜びを感じる。神の御言葉が一節ごとに喉を震わせ舌先を通り唇を通るその時、その意味が「感じ取られ」、わたしたちは喜びに震える、それが「黙想:メディテーション」なのである。この「黙想:メディテーション」と訳される「ハガー」は、イザヤ書では獲物を捕らえたライオンがあげる唸(うな)り声」を表す言葉である。「ライオンの唸り声」と「トーラーの黙想」が同じ言葉で表されている。つまりこの二つはよく似ている。「この獲物でより強く、よりしなやかに、より早くなれる」と予感に震える時、ライオンは喉を鳴らし、唸り声をあげる(イザヤ書31章4節)。詩編にはこう記してある。「われ汝(なんじ)の戒めの道を走らん。その時汝は理解を広く給(たま)うべし」(詩編119編32節)、と。

 以上述べたことは「神の言葉をただ読むこと」と「神の言葉について考えること」とは全く違う。つまり「知性を用いて神の言葉の意味を掴(つか)んで行く」というよりもむしろ「肉体を用いて神の言葉を聞いて行く」ということである。「神の言葉を繰り返し朗誦し、そうしてその言葉を何度も聞いて行く」ということである。あるいは「そうして朗誦される神の言葉を、わたしたちの筋肉や骨に染み込ませる」ことでもある。実に、「黙想:メディテーション」とは「咀嚼(そしゃく)すること」でもある。

これこそ 貴い御言葉
わたしの口の あまい蜜
わたしはそれを して祈る
わたしは祈りを ささげます
わたしの神よ 憐れんで
わたしを支え 岩なる神よ
わたしのとりなす 祭司によって
祭壇に ささげた祈りを うけいれ給え
―― 詩編19編14節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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