5月7日「人格的な側面からの必然性」

「神の怒り」に関する記述を削除して「聖書のいかがわしい箇所」を削除しようとする人がいる。そういう人は、自分が行っていることが一体何であるかを全く分かっていない。自分たちが「改善しよう」と思うことが、どんな結末をもたらすかも考えていない。神から「怒り」を削除されるやいなや「苦難」は非人格的なものになってしまう。というのも、「神の怒り」は神の人格的な側面から必然的に出てくるもの ―― つまり、「非人格的な成り行き」や「抽象的な法則」の正反対なものなのだ。

イエスは彼女(マリア)が泣き、ユダヤ人たちも泣いているのを見て、深い怒りが湧きだし言われた。
「どこに彼を置いたのか?」
彼らは「主よ、来て御覧なさい」と言われた。
イエスはむせび泣いた。
ユダヤ人たちは言った。
「御覧なさい。
どんなにラザロを愛しておられたことか。」
―― ヨハネによる福音書11章33~36節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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