4月14日「クリスチャンの生活」

……「クリスチャンの生活」とは「神がわたしたちに何をしてくださるか」であって「わたしたちが神に何をするか」ではない。「クリスチャンの生活」とは「神が何をわたしたちに語るか」であり「わたしたちが神に何を語るか」ではない。もちろん、わたしたちも何かをしたり、何かを話したりする。でも、わたしたちが何かを行い、何かを語るその時、いつもその都度、わたしたちは出発点に立ち戻り、「神と神の言葉」から始め直さなければならない。そうしなければ「神と無関係なスピリチュアリティー」参与することになる。だからもし、わたしたちが本当の「クリスチャンの生活」を真実なものとしたいのならば、気をつけなければならない。「クリスチャン」という言葉を使いながら、それを自分の「ナルシシズム」や「プロテメウス主義(世界を自分のために使い尽くそうとすること)」の隠れ蓑とし、神を礼拝せず、神の語ることも無視してしまうことが起こり得る。そのために出発点に戻り、神を崇(あが)め、神に聴くことが必要となる。わたしたちの記憶は罪によって損なわれ、ジャーナリズムが提供する最新のスピリチュアリティーに影響を受けやすくなっている。そのことを考えると、イエスの中に啓示され、聖書によって証明されている真実を、わたしたちは日々再認識することが必要なのである。また、わたしたちには太古からの傾向が残っていて、神聖な啓示の一片一片を矮小化してしまうところがある。つまり、神聖な啓示に出会うと、それを、道徳的あるいは霊的な技術に落とし込み、身過ぎ世過ぎの知恵として用い、ついには神なしで生きて行くために用いるところが、わたしたちにはある。だから「何も知らない状態」あるいは「何も達成していない状態」に日々戻ることが求められる。この問題に対応するために、わたしたちはどうも信頼できない存在である。そのことは何度も証明されている。わたしたちは新鮮な思いで、朝毎に、昼毎に、夜毎に、出発点に立ち戻る必要がある。

救いはすべて神のお考えになったこと、
  一つひとつがすべて、神の作品である。
わたしたちがすべきことは結局、神を十分に信頼して任せることである。
最初から最後まで、全ては神の贈り物なのだ!
わたしたちが主役ではない。
もし、わたしたちが主役であるなら、
「すべてやり遂げたのだ」と、
わたしたちは自慢してまわることだろう。
―― エフェソの信徒への手紙2章8~9節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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