黙示録の中には、一週間の典型的な様子がまとめられている。黙示録の中には「政治的テロリズム」「礼拝の秘儀」「痛みが伴う離別」「答えが与えられない祈り」「荘厳な賛歌」「まだ成就しない預言」「栄光の雰囲気」「野蛮な残虐性」「胸が引き裂かれるような死」「満たされない希望」などがある。これら全て、キリストを信じて生きようと決めた人々が経験することである。その全てを、まるで完全に振り付けられたバレエのように展開して見せるのが「ヨハネの黙示録」である。そこには「七」という数字が繰り返し用いられている。その数は「完全」を表している。聖書に関わった古代の人々の想像力が刺激され、この数がリズムを刻むのである。七日ごとに「主の日」が設定されている。この日は復活の最初の日を意味する。この日ごとに、堕落した被造物は、贖(あがな)われた新しい週に入って行く。
異教徒の世界はそうではない。一週間を刻む一日一日は、神あるいは女神に委ねたのである。神や女神は、その独自の気まぐれな主張をし、あるいは勝手に善悪を決めて行く。異教の神々は、言い争い、仲たがいし、互いに相争う。それで、そうした神々に与えられた一日一日で構成される一週間は、結局、神々の企みと陰謀との寄せ集めとなっている。
クリスチャンの一週間は、それとは対照的に、全ての時をキリストの主導権の下にあると見る。時間は贖われている。神は被造物を創り、キリストが被造物を贖う。絶え間なく渦巻く時の流れの最初の源泉が、一週間の最初の日・主の日である。実に「主の日」こそ、後に続く六日の日々の源なのである。「創造と贖い」という原初の定式から、一週間の日々の内に起こる全ての出来事とその経験が流れ出てくる。
「今いまし かつていまして やがて来る神」
「今まさに 到来せんと 迫る神」
その神からの 祝福にあふれるご挨拶。
そしてまた 玉座に集った 七つの霊の ご挨拶。
イエス・キリスト ―― まことの証を具現する
死の中からの 最初のいのち
地上の王を 統べ治める方
その方からの ご挨拶……
―― ヨハネの黙示録1章4~5a節