信仰とは、人生における冒険に乗り出すこと、そのリスクを取ることである。「聖なるもの」に自分自身を向き合わせることが信仰というものである。神の大きさ・その見えない偉大さ・について、わたしたち牧師は、実にあちらこちらで気づかされる。自分の腕や足の不思議・パンや葡萄酒(ぶどうしゅ)の神秘、わたしたちの頭脳や道具の素晴らしさ、山や川の美しさ ―― そのような中にある神の大きさと偉大さはそれに「意味」と「運命」と「価値」と「喜び」と「美しさ」と「救い」を与える。聖礼典を通してこの現実を伝える呼びかけに応答する。そして、この共同体に属する男性、女性、子どもや若者が仕事と遊びの中で行っている事柄を神が憐れみと恵みの中で行っていることに結びつける方法で信仰の共同体にリーダーシップを与える。
それで、わたしたちはこの牧師の仕事に励んできたのである。その仕事に従事する中で、わたしたちは「専門職」や「職人」と「仕事」との違いを学んだのだ。「仕事」には「果たすべき職務」が割り与えられる。「仕事」を設定した人と「報酬」を支払う人が ―― それが誰であっても ―― 重要である。まずは、とにかく、その人々を満足させなければならない。何が期待されるかを学び、それを行うのが「仕事」である。「仕事」することは何の問題もない。程度の差こそあれ、わたしたちは誰でも「仕事」をする。ある人は皿を洗い、誰かがゴミを出すという、それぞれの「仕事」の役割を果たすこととなる。しかし、「専門職」と「職人」は、それとは異なるのである。「専門職」と「職人」には「誰かを満足させ喜ばせる」という以上の責務が課せられている。つまり、わたしたちは「専門職」あるいは「職人」として牧師の仕事に励んでいる。その際「リアリティー」というものの本質を追求し、それを具体化しようとしている。自分の職責に忠実であろうとする時には、どうしても、より深い水準で語られ「利益」を与えることとなる。その「利益」とは、人々がわたしたちに求めてくるものよりずっと深いものである。「職人」と「専門職」を比較するとこうなる ―― 「職人」は「目に見えるリアリティー」に関り「専門職」は「目に見えないリアリティー」に関わるのである。たとえば、木工職人という「職人」は、材木やその木目など「木それ自体」を深い次元で取り扱う職責がある。優れた木工職人は、自分の素材を知り尽くし、敬意を払いつつ木を取り扱うのである。彼の関心はただ単に消費者を喜ばすよりも遥かに広い視野を見ているのである。優れた職人は「どうしたら完璧に素材を使い切るか」と考える。「専門職」の場合は「職人」と同じような突き詰めた意識が、目に見えないものに向けられる。たとえば、医者は「健康」という目に見えないものを取り扱う。(つまり、ただ単に人々を気分よくさせるだけではない)「健康」を完全な形でもたらすことが求められる。弁護士であれば「正義」という目に見えないものを取り扱う。(つまり、ただ、人々がただ単に人々の我儘(わがまま)を助長するだけではない)大学教授であれば(試験勉強と称して色々な情報を学生の脳に詰め込むだけではない)「学習」の意味を完全に理解させることが求められる。そして、牧師という「専門職」は「神」という目には見えない対象を取り扱うのである。(つまり、ただ単に不安を和らげたり、慰めを与え、宗教的組織を経営することではない)
あなたの生き方で信者たちを教えよ。つまり言葉、態度、愛、信仰、誠実さをもって教えよ。聖書を読み、相談に乗り、教えという、あなたの持ち場に留まりなさい。
―― テモテへの手紙(一)4章12B~13節