祈り)天の神様、私たち全ての一人一人に新しい目覚めを与えて下さり、ありがとうございます。
少しずつ暖かくなり桜の木々がピンクのつぼみを膨らませ、まるで木々がピンク色に燃えているかのように見えます。
あなたから与えられる「花を咲かせる時」を木々が待つように、私たちも決して数字には置き換えられない、神様あなたから一人一人に与えられる「時」を待つことができますように。
これから語られますみことば、この語る者を通して今、聖霊の働きによって聖書から聴くお一人お一人と皆さんの心にあるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたにお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してみ前にお捧げ致します。
アーメン。
【参照聖書箇所:ヨハネによる福音書11章17〜27節】
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25、26節)
「また明日」という言葉を私たちは使います。近所の友達と遊んで別れる時や学校で帰宅する友達と別れる時、会社の仲間と別れる時。「また次の日会おうね」という意味で私たちは「また明日」と言います。また、幼い頃、私は教会で牧師に「永遠のあしたも私たちには与えられているんだよ」と言われ、先生も随分難しいこと言われるな、と思ったことを覚えています。
私は大学生の頃、あるホスピスで実習をしました。初日、担当させて頂いた患者さんはSさんという方でした。看護師さんはSさんに「Sさん今日から実習にいらした学生さんです。よろしくね、いっぱい話をしてあげてね。」と言って私を残して部屋を出られました。カウンセリングの実習の初日だったので自己紹介をした後、Sさんの話を聞こうと必死に構えていましたが、目を閉じられたままSさんは全く話されませんでした。先生に呼ばれ半分助かったと思いながら私は「Sさん失礼します。」と言いSさんの部屋を去ろうとしました。そのような私をSさんはチラッと見られたので「あっSさん起きられていたんだ、また明日Sさんの話を聞こう。」と軽く心に思い私はその場を失礼しました。その次の日の朝、ミーティングで看護師さんが「昨夜Sさんが亡くなりました。」と言われました。「えっ今日こそはお話が聞けると思ってたのに。」と思いながらやり切れない気持ちでいっぱいでした。その時にすぐ、そんな状態の方を実習生に担当させるなんて、とは思えず、ただ「明日という日は皆あるとは限らないんだ」と思ったことを覚えています。
しかし、今お読みしたみことばが語られた時、また幼い頃の牧師の話や実習の時の思いやいろいろな思いを思い出しました。私たちの周りにはいろいろな形の、ないけれども必要で大切なものがたくさんあります。「思い」や「明日」、「愛」や「時」など、大切な「命」も形ある見える物ではありません。イエス様は言われます「わたしは命である。」と。
私は今、Sさんに永遠のあしたにお会い出来ると思えます。そう思うとたとえこの世でいろいろな形で別れた方々でさえ、お一人お一人に出会えたことを感謝できるのです。
「またあしたお会いしましょう」