立教学院諸聖徒礼拝堂100周年記念講演会 礼拝堂が失ったものと守ったもの

 

日本聖公会系のキリスト教主義学校、立教大学(東京都豊島区)は21日、RUM(Rikkyo University Mission)チャペル講演会「諸聖徒礼拝堂から読み解く、立教大学100年の歩み」(主催:立教大学チャプレン室)を開催し、加藤磨珠枝(かとう・ますえ)教授が講演した。学内外から約80人が集まった。

加藤磨珠枝さん=21日、立教学院諸聖徒礼拝堂(東京都
豊島区)で

加藤さんは東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了し、美術の博士号を持つ。立教大学には2010年に着任し、14年より同大文学部キリスト教学科教授を務めている。

池袋キャンパスにある立教学院諸聖徒礼拝堂は1920年に献堂され、今年で献堂100周年に迎えた。それを記念する講演では、礼拝堂の歴史をひもときながら、同大の建学の精神とその歩みを振り返った。

日本聖公会の伝道の拠点でもあるこの礼拝堂は、同大にとって主要な位置を占めていたため、池袋キャンパスの赤レンガ校舎群として最初に建築された(1990年、他の赤レンガ校舎群とともに東京都歴史的建造物景観意匠建造物に指定された)。大学の中にありながら一般信徒にも開放する、日本でも珍しい礼拝堂だ。

立教学院諸聖徒礼拝堂内部

立教大学は、もともと1874(明治7)年、米国聖公会の宣教師チャニング・ウィリアムズ主教が東京・築地の外国人居留地に設立した私塾「立教学校」に始まる。1907年、専門学校令による専門学校「立教大学」を設立し、その後、池袋に現在のキャンパス用地を購入した。

最初の大学構想基本計画は、元立教大学校の校長で建築家のジェームズ・ガーディナーが作成したが、その後、米国聖公会伝道局は、米国ニューヨークにあるマーフィー・アンド・ダナ建築事務所にキャンパス・プランを要請した。15年に礼拝堂計画スケッチが完成し、16年に定礎式が行われたが、その後、第一次世界大戦や工事責任者の交代などにより完成がかなり遅れ、ようやく20年に礼拝堂が聖別され、「諸聖徒礼拝堂」と名づけられた。

完成当時は、チューダー様式の大きなアーチ窓やゴシック風の祭壇など、中世の建物の内部空間に共通したものだったが、完成してわずか3年後に起きた関東大震災(23年)により甚大な被害を受けてしまう。その後、米国聖公会の寄付により2年をかけて修復されたものの、献堂とほぼ同額の費用がかかったという。

立教学院諸聖徒礼拝堂の外観(写真:立教大学提供)

1941年、日米関係の悪化により米国聖公会と分断。礼拝堂は閉鎖されて「修養堂」と改称され、聖堂内は非常食の倉庫になった。さらに、礼拝堂内の内陣と外陣とを分けるスクリーンや説教壇、長椅子なども、防空壕掩蔽(えんぺい)のために失う。同礼拝堂が再開したのは終戦直後のこと。

池袋の新キャンパス構想計画では当初、米国聖公会と日本側とが必ずしも一致していなかったという。当時の米国聖公会伝道局の機関紙「The Spirit of Mission」(1916年)を見ると、「伝道に相応(ふさわ)しい建築」というタイトルで、米国聖公会が提案した和風様式の礼拝堂を日本側が断固として拒否していたことが伝えられている。つまり、日本側はそれを異教的だと感じ、むしろ米国で大いに採用されていたカレッジ・ゴシック建築を踏襲したいという考えを持っていたのだ。

「当時の構想段階から、具体的な建築設計については米国の建築事務所のものを取り入れながらも、日本側の強い意向も反映させ、現代のキャンパス建築がなされたのです」

鷲の聖書台

講演の最後に、鷲(わし)の姿の聖書台についても触れた。鷲は福音書記者ヨハネのシンボルとされ、四福音書の中でも「言(ことば)」について語っていることから、聖書台と結びついてきた。この木製の聖書台は、53年、英国国教会(聖公会)の首長でもあるエリザベス女王の戴冠式のおり、英国から持ちかえったものだという。

加藤さんは、「歴史の中で失くした形あるものは、心の中に残っていると」と述べ、次のように締めくくった。

「この礼拝堂には、『聖書の教えを大事にしつつも革新を恐れない』という聖公会の伝統も反映されています。たとえば、戦争で失われた内陣のスクリーンです。それは荘厳さをもたらしますが、会衆との一体感は阻害されます。現在はそれがないことで、私たちは一体感を持つことができるのです」

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