今年で25回目を数える「AIDS文化フォーラム in YOKOHAMA」が3日から3日間、かながわ県民センターで開催され、「宗教とエイズ」と題したトーク・セッションが4日午後に行われた。ヌカポク・スダーカル氏(カトリック雪ノ下教会助任司祭)、古川潤哉(ふるかわ・じゅんや)氏(浄土真宗本願寺派浄誓寺僧侶)、三橋健(みつはし・たけし)氏(國學院大學大学院客員教授、神道学者)の3人の話を、岩室紳也(いわむろ・しんや)氏(泌尿器科医師)がリードした。
まずスダーカル神父が、キリスト教の立場を話した。「私の出身のインドでは、約8割がヒンズー教徒。キリスト教徒は約2パーセントしかいません。ですが、ヒンズー教徒の中で、カーストの最上位にある人がエイズに感染し、キリスト教のエイズ緩和ケア・センターに来て、キリストの愛に触れ、洗礼を受けるという例もあります。どのような人も、愛すること、そして愛されていることを知ってほしい。キリスト教の基本は愛。愛することの上に性があります」
古川氏は、地元の佐賀県で僧侶をしながら、性教育や命の問題とも向き合っている。エイズ患者の緩和ケアに携わる人があまりにも少ないことに驚いて勉強を始め、それとともに若者の性や人工中絶の問題にも関わるようになったという。
「生きることと死ぬことをセットで性をとらえたい。仏教では性がタブーのように見られがちだが、それは修行僧のルール。生と密接にかかわる性、そして生きていく上で切り離すことのできない性は、仏教で決して禁止されているものではありません。だからといって、性を特別視したり、神格化したりすることもない」
三橋氏は、「神道では性は罪悪の一つだが、罪の概念が現代とは少し違う」と話す。「神道には大祓詞(おおはらいことば)という儀式が6月と12月にあります。そこで、犯した罪の穢(けが)れを祓(はら)う。神道では、罪が積もり積もると、やがて死が訪れるという考え方。罪には、天(あま)つ罪と国つ罪に分かれる。国つ罪には、性も病気も含まれる。命は神様のもの。私たちは預かっているだけ。この点はカトリックと似ているのでは。命を預かっている私たちは、それを大切にしなければならない。いつかお返しする時が来るから」
スダーカル神父は、「命は神様から『いただいた』最高の賜物」と表現し、3年前に司祭になったばかりの友人の話をした。ブラジルに宣教に行くことが決定し、静かに心を燃やしていた時期に、両親を車の事故で失った。失意のどん底ではあったが、神様に仕える心、強い信仰は揺るがなかった。しかし、出国直前に自身も末期がんであることが分かった。「どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。私たちには分からないが、すべては神様がご存じ。命さえも神様にゆだねる信仰。これがいちばん大切です」
それに対して古川氏がこう話した。「キリスト教が日本に入ってきたとき、なぜ『God』を『仏』ではなく『神』と訳したのか、今日の議論を聞いていると分かる気がします。非常によく似ている。浄土真宗も阿弥陀仏様の一仏信仰。仏教は多神教のようだが、宗派によっては一神教であるキリスト教と近い。しかし、仏教の経典には『命』という言葉は出てきません。『生老病死』という四つの苦があるという概念が仏教にはあり、それは避けられない。これと向き合うことが仏教です」
最後に岩室氏は、次のように結んだ。
「フォーラムが始まった25年前は、薬もまだ開発されていなくて、HIVに感染した人々が次々と亡くなっていった。それを医師たちはどうすることもできなかった。その頃、フォーラムのプログラムに『エイズと宗教』がなかったのは本当に残念です。HIV感染者には医療が必要だが、世界中の患者に薬が届いているわけではない。死と直面しなければならない人々が多くいる中、医療が届かなくても宗教は届けることができる。生と死を考えるとき、宗教を通してそれと向き合うことの大切さを改めて感じました」
同フォーラムでは、エイズ、性教育や性犯罪、性病に関するものまで、多くの講演会がかながわ県民センター内の3箇所の会場に分かれて、約2時間ずつ行われた。1階ホールでは、カトリックHIV/AIDSデスクなども参加する各団体のブースが並んだ。