ウィクトリヌスのことを知る:「救い=実存の根本的転換」の問題圏へ
「絶望」のただ中にあったアウグスティヌスは、信仰の道の先達であったシンプリキアヌスのもとを訪れましたが、彼から聞いたウィクトリヌスなる人物の話は、この後のアウグスティヌスの生き方に大きな影響を与えることになります。
「それからシンプリキアヌスは、『賢い人びとには隠れて、幼な子のような人びとにはあらわに示された』キリストの謙虚にわたしを従わせようと、かれがローマにいたときもっとも親しく知っていたウィクトリヌスの思い出を話してくれた。わたしはここに、シンプリキアヌスがウィクトリヌスについて語ったことを述べずにはおられない。そうすることは、あなたにむかって告白すべき、あなたの恵みの大いなる賛美にほかならないからである……。」
ウィクトリヌスをめぐる出来事は、なぜアウグスティヌスの心を大きく動かしたのでしょうか。今回の記事では、『告白』の言葉に耳を傾けることを通して、「救い=実存の根本的転換」の問題について考えるための手がかりを探ってみます。
「自己の分身」:ウィクトリヌスの話がアウグスティヌスの心を動かした理由
プロティノスの書物をラテン語に翻訳したことでも知られるウィクトリヌスなる人物について、『告白』第八巻第二章では次のように語られています。
『告白』第八巻第二章:
「さて、このウィクトリヌスはきわめて博学で、自由人にふさわしいあらゆる学問に精通し、哲学者たちのはなはだ多くの書物を読んでそれを批判し、多くの尊い元老院議員たちの師であった……。」
事態を、二点に分けて整理してみます。
① アウグスティヌスにとって、ウィクトリヌスはある意味で「自己の分身」とも言えるような生涯を送った人物に他なりませんでした。すなわち、ウィクトリヌスはアウグスティヌスと同じく哲学の書物を読み続け、学問に打ち込んだ後に信仰の道へと導かれていったという意味で、まさしく彼のロールモデルと言いうるような経歴を歩んだ人であったと言えるのではないか。生まれた時からキリスト者であったわけではなく、むしろ、老年になるまでエジプトの神々を熱心に弁護し続けた後に「神の愛」を信ずるに至ったことも、マニ教の世界に深入りした上で探求の道をさまよい続けていたアウグスティヌスには、自分自身の姿に近いものと見えていたのかもしれません。
② そして、ウィクトリヌスは、アウグスティヌスよりも先に「救い」の出来事を経験していたという意味で、アウグスティヌスに、自分自身の実存の根本的に新たな可能性に向き合う機縁を与えたと言えるのではないか。
「ウィクトリヌスは、シンプリキアヌスもいっているように、聖書に親しみ、キリスト教のあらゆる書物をもっとも熱心にひもどいて、それらを研究していたが、シンプリキアヌスにむかって、公然といったのではなく、ひそかに打ち明けて、『じつをいえば自分はもうキリスト教徒である』と語った。」
ウィクトリヌスは、哲学を学ぶ中で新プラトン主義の思想に出会い、その後に信仰へと至ったという点でも、まさに当時のアウグスティヌスが進んでいた道の先を行く実例を提供していたといえます。「絶望」とは単なる袋小路、もうこれ以上は決して先に進むことのできない「滅びの穴」ではなく、その苦しみをくぐり抜けた先には「真なる生き方」に従って生きる道が開けているのではないか。哲学の探求とは、この「『生きることの根源的な意味』の与え直し」なる出来事へと通じているのかもしれないという見通しを与えられたことは、アウグスティヌスを「救い」の方に向かって進んでゆくように大きく促したと言うこともできそうです(『告白』の道行きにおいては、このエピソードの後にはまさしく「回心=『取って読め』」の日の叙述が続いている)。
実存の新たな可能性は、「〈他者〉の超絶」を通して開かれる
論点:
人間の実存の新たな可能性は、〈他者〉との出会いと関わりを通してこそ開かれるのではないか?
「絶望」なるもののいかんともしがたい所の一つは、そこから抜け出すための出口が何一つないように見えるという点に他なりません。このことは、言葉そのものの成り立ちの点から見ても明らかなのであって、「絶望=『希望』のゼロ状態」とはまさしく、人間存在を生き続けることに、「将来」を生きることに向かわせてくれる、その「希望=未来時制」そのものが奪われることであると言うこともできそうです(時間性の統一における、致命的な欠損状態としての絶望)。
この点に関しては、これからこの問題に関する比類のない先駆者であるキルケゴールの言葉をも参照しつつ詳しく検討してゆく必要がありそうですが、上に見たような事情があるゆえに、アウグスティヌスにとって、ウィクトリヌスの話を聞いたことは非常に大きな意味を持つ出来事であったと言えるのではないか。自分と同じような実存の状況に置かれた上で「絶望」に陥ることなく、命を救われた人間が存在する。単なる理論や理屈の次元を超えて、実際に死に至ることなく新しい生を生き始めた人の実例を耳にしたことは、アウグスティヌスの「生きることの意味」をめぐる探求にも大きな影響を与えずにはおきませんでした。
このエピソードを通して改めて確認できるのは、人間にとって、不可能にも見える実存の新たな可能性に向かって飛び込んでゆくことを可能にするのは、〈他者〉の次元との関わりに他ならないということなのではないだろうか。
アウグスティヌスが直面していた状況というのは、「自分自身の理性のみで考えている限り、もうこれ以上はどうにも先に進めない」というものでした。「救い」をめぐるウィクトリヌスの実例は彼に、「命の内にとどまって生き続ける可能性は実際に存在する!」というメッセージを、いかなる証明よりも雄弁な仕方で提示したと言えるのではないか。〈他者〉は「生きることの意味」を探求する人間に対して、その人間の想像力を超えたところに存在する実存の可能性を、実例そのものの力によって指し示す。あらゆる「そのようなことは不可能だ」を覆して「新たな生き方は可能である」へと転換させるのは、探求の道のりの途上で出会う「自己の分身」たち、自らが歩む道を先に踏破した人々との出会いに他ならない。ここには、「可能性」のカテゴリーと、自己の意識を超えたところに存在する〈他者〉の次元とを重ね合わせて考えるという展望が開かれていると言えるのではないか。「〈他者〉の超絶」を思索する哲学にとって、『告白』に記されているアウグスティヌスの道行きはまさしく、この上ない範例を提供するものであると見ることもできるのかもしれません。
おわりに
「可能性こそが、唯一の救いなのである」とキルケゴールは語っていましたが、この「唯一の救い」なるものが人間のもとに実際に到来するという出来事は、どのような構造と論理に基づいて生起するのだろうか。私たちとしては引き続き、『告白』の言葉に耳を傾けながら問題を追ってみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]