プラトン哲学の核心へ
アウグスティヌスは自分自身の実存を賭けた真理の探求を進める中で、新プラトン主義の思想に出会いました。
「それで、まず、あなたがどのように『高ぶるものに逆らい、へり下るものに恩恵を与えられるか』ということを、またどれほど大きなあなたのあわれみによって、『あなたの御言が肉となって人びとの間に宿り』、謙虚の道が人間に示されたかをわたしに見せようとして、はなはだしい傲慢に増長している人を通じてギリシア語からラテン語に翻訳されたプラトン派のある書物をわたしに渡された……。」
「新プラトン主義」の形容を付されることもあるプロティノスの哲学の内実に迫るためにはまず、プラトンその人の哲学から入ってゆくのがよさそうです。今回からの記事では、『国家』における有名な「洞窟の比喩」をめぐる議論から、話を始めてみることにします。
「洞窟の比喩」とは
『国家』515C:
「こうして、このような囚人たちは」とぼくは言った、「あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう……。」
プラトンが『国家』において、ソクラテスの口を通して語り出す「洞窟の比喩」において問題になっているのは、「本当の現実」から切り離されたところで生を送り続けているとされる、私たち人間存在の姿にほかなりません。
洞窟の中で、手足も首も縛られた人々が奇妙な日々を暮らしています。彼らは体を束縛されて動くことができないので、目の前にある壁しか見ることができません。そして、その壁には映画のスクリーンのようにして、さまざまな人間や動物、物の影だけが、灯されている火の光のゆらめきに従って映されてゆきます。
この人々は壁に映る影しか見たことがないので、この影こそが「現実」そのものであると思い込みながら生きてゆくことになるでしょう。彼らは、洞窟の外の世界はもちろん、火そのものも、影となって映されているものの実物をも、一度も見ることがないままに生を送っています。私たちの目から見ると、彼ら洞窟の住人たちは、あたかも目覚めたまま夢を見続けているかのように日々を過ごしているということになりそうです。
「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人たちのお話ですね」「われわれ自身によく似た囚人たちのね」。プラトンはこの比喩を通して、「私たち人間の生が、これらの囚人たちの生のようなものであるとしたら?」という問いを提起しています。私たちはひょっとしたら、影を実在そのものと思い込みながら生きている、これらの囚人たちのようにして日常の生を過ごしているのではないか。それというのも、「思考する」という行為の本当のポテンシャルを引き出すことのないままに生活を続けている限り、プラトンによれば、私たち人間の生は「現実を生きている」と言うことはできないものにとどまってしまうからにほかなりません。
「存在の根源」に向かって思索する:哲学することの意味とは
プラトン哲学の根本直観:
考えることをしない限り、私たち人間は、本当の意味で生きているということはできない。逆に、私たちは「思考する」という行為をその真の射程において解き放つことを通してこそ、「実在」のような何物かに近づくことができるのである。
「思考する」という行為のポテンシャルを十全な仕方で解放することが、プラトン哲学の根本モチーフです。考えることの力は普段、生活を便利にしたり、世の中でうまくやっていったりするために用いられています。これはこれで有用かつ、必要な用い方であることは誰にも否定することはできませんが、これは「洞窟の比喩」で言うならば、壁に映っている影の動き方や、そのパターンを要領よく掴みとることに相当します。世でもてはやされているのは、いわば影の世界の中で賞賛されるためのコツに過ぎないのであると、『国家』のソクラテスは語っています。
これに対して、プラトンの哲学が打ち立てようと試みるのは、「思考する」という行為の別の用い方にほかなりません。それはすなわち、考えることのうちに含まれている「見る」という働きを純粋状態において解き放つことによって、思考の行為を「真の実在にアクセスすること=イデアを観照すること」の高みへと昇華させることを意味します。
哲学の営みとは、いま生きている影と眠りの世界を飛び出して、真の実在の方へと上昇してゆくことを目指すものである。これこそが、プロティノスが、そして、アウグスティヌスを始めとするキリスト教の哲学が後に受け継いでゆくことになる、プラトン哲学の根本直観にほかなりませんでした。哲学する人間が自らの「生きることの意味」を探し求める時、彼あるいは彼女は「思考する」という行為の意味を根源的な仕方で問い直しつつ、「真に実在するものとは何か?」という問いを問うことになります。そのようにして、哲学する人間は、日常性の次元を超えて自らの問いと探求とを進めてゆくただ中で、「真に実在するもの」、あるいは、「存在の根源」のような何物かに突き当たることになるのです。私たちはこれから、プラトンやプロティノス、そして、アウグスティヌスといった思索者たちにとって、「洞窟を出ること」が何を意味していたのかを探ってみる必要がありそうです。
おわりに
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」自分自身の生まれ育った土地を出発して未知の土地へと出てゆく思惟の運動が形而上学の本質に含まれているとするならば、プラトンこそはやはり、アリストテレスと並んで「形而上学の父」であると言うこともできるのではないかと思われます。私たちとしてはもう少しこの「洞窟の比喩」のもとに踏みとどまりつつ、問題を掘り下げてみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]