アウグスティヌスが遭遇した「出来事」について
人々の前でローマ皇帝への賛辞を述べるほどに出世の道を歩みつつあったアウグスティヌスに、ある「出来事」が起こります。
「その日、わたしは皇帝に賛辞を述べる用意をしていたが、そのなかでわたしは多くの虚言を語り、虚言を語りながら、その賛辞の正体を知る人びとの気に入ろうとした。わたしの心は、このような心遣いであえぎ、身もほそる熱い思いで焼けるほどであったが、ミラノの街路を通っていたとき……。」
この「出来事」は、『告白』の道行きの中でも特に重要なものの一つに属しています。今回の記事では、この「出来事」の中身を見てみることにします。
物乞いの男性を見て、アウグスティヌスが感じたこと
アウグスティヌスがミラノの街並みを歩いていた時に目にしたもの、それは、おそらくは飲酒をした後にはしゃいでいたのであろう、物乞いの男性の姿でした。
その男性は実に機嫌よさそうに、周囲の人々に愛想をふりまいていました。彼の姿は青年アウグスティヌスに、きわめて深い印象を与えます。というのも、その頃のアウグスティヌスの心は不安と焦燥感とで一杯になって、苦しみあえいでいたからです。
自分は必死になって名誉と高い地位を求めつつ幸福を追い求めているつもりなのに、なぜか心に感じる「重荷」はどんどん増えてゆき、今にも押しつぶされそうになっている。それなのに、あの物乞いの男はどうだろうか。貧しく、いかなる名誉からも離れたところで生きているにも関わらず、あんなに晴れやかな表情で喜びはしゃいでいるではないか。ひょっとしたら、自分の進んでいる道は何か根本的なところで、深く間違っているのではないか……。
後年のアウグスティヌスも『告白』における回想の中で述べているように、おそらくは当の物乞いの男性にしても、「真実の幸福」なるものに到達しているわけではなかったことでしょう。しかし、この出来事は青年アウグスティヌスに、「『真実の幸福』とは何か?」という問いを改めて突きつけずにはいませんでした。これ以降、アウグスティヌスの問いかけはますます、真剣さの度合いを深めてゆくことになります。
「ありのままの自分」として生きること
問い:
「真実の幸福」、あるいは「真実の平安」のような何物かに到達するためでないとしたら、哲学の道を行く人は何のために探求を行っているのか?
アウグスティヌスが歩いていた道は、平安からはほど遠いものでした。この世の中で高い地位へと登りつめてゆくためには、「あれも、これも」とさまざまなことを気遣わなくてはなりません。周囲の人々からどう思われるのか、さらに、出世するためには何をしなければならないのか、そうしたことを絶え間なく考え続けながら生活する中で、アウグスティヌスの心は知らず知らずのうちに窒息しかかっていたといえます。
それに対して、物乞いの姿を目にした時に彼の心に示されたのは、人間には、「ありのままの自分」として生きることも可能なのではないかという問いかけにほかなりませんでした。私たちは、誰からどう思われるかというまなざしのゲームのうちで、〈ひと〉からよく思われたいと思っていつまでも自分で自分を苦しめ続けている。けれども、そんなことはもう終わりにするという道もありうるのではないか。人間には、人の目を気にすることなく自由そのものであるような生を送るという可能性も存在するのではないだろうか。
物乞いの男性の姿を目にしたことは、理屈や理論を超えたところで青年アウグスティヌスの心に対して、こうした疑問を突きつけました。それはまた彼の心が、こうした自分自身の「問いかけ」を正面から問うところにまで探求を進めてきたことをも意味するでしょう。人間が生きてゆく上では、彼あるいは彼女自身には辛く、苦しく思われるような「重荷」を抱えつつ、「わたしはいかに生きるべきか?」と問い直さなければならないようなことも起こります。しかし、真理なるものは人間を自由へと解き放たずにはおかないものなのであってみれば、問いを問うその人が真剣に問いかけ続ける限り、その「問いかけ」は必ずや最後のところで、「真実の幸福」のような何物かに通じているはずなのです。ここからのアウグスティヌスは自らの意に反して悩みと苦しみのうちに飲み込まれてゆくことになりますが、その荒波をくぐり抜けた後には必ずや、突き抜けた空のような本物の平安が彼を待っているはずです。
【おわりに】
「だから、私たちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか」と信仰の書は語っていますが、時に悩み、苦しみ、うめきつつも、それでも道を共にする友に励まされながら苦闘し続けるのが人間の生というものなのかもしれません。私たちの読解も、アウグスティヌスが真実の平安に到達する「取って読め」の出来事にたどり着くまで、引き続き歩み続けることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]