今回は、17世紀のヨーロッパを代表する古典である『パンセ』から、パスカルの言葉を取り上げてみることにしましょう。
人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。パスカル
パスカルといえば「考える葦」、というくらいに広く知られているこの表現のうちには、この哲学者が抱いていた根本思想のエッセンスが一点に凝縮されています。「考える葦」のうちには、私たち人間が抱え持っている偉大さと悲惨とが、一つの言葉の形をとって共に言い表されているのです。
まずは「考える葦」から、「葦」の方を取り出して考えてみましょう。折ろうと思えばすぐに折れてしまう葦は、人間存在の弱さを指し示す象徴です。昨日までは元気だった人であっても、病や不慮の事故に襲われるならば、たちまちのうちに死んでしまいます。降りかかってくる運命に対して、私たち人間がどうしようもなく弱い存在であることは確かです。
それだけではありません。私たち人間は死というこの逃れがたい運命のことを正面から考えたくないがゆえに、あらゆることを思いついては自分自身から逃げようとしつづけている、とパスカルは言います。スポーツをすることも、エンターテインメントに没頭することも、社交でのやり取りに一喜一憂することも、本当は人間が、人間自身の抱えている惨めさから目をそらすための口実のようなものに過ぎないのではないか。そう言われてしまうと何だか身も蓋もない気もしますが、パスカルの言葉のうちには、日常を生きている私たちがふだん見ないで済まそうとしているものをはっきりと言い当ててこちらをぎくりとさせるような、きわめて鋭いものがあることも否定できません。
しかし、これで話が終わってしまうならば、「考える葦」がこれほどまでによく知られた表現となることもなかったでしょう。パスカルが生きていた時代からは三百年以上も経っている今の時代の私たちまでもがこの言葉を知っているのは、パスカルが、この言葉の前半部が指し示している行為、すなわち「考える」ことの偉大さをも言い落とさなかったからにほかなりません。
人間は考えます。たとえば、「この宇宙の無限の広がりに比べてみるならば、わたしは何とちっぽけで、何と惨めなのだろうか。」ここには惨めさの認識がありますが、同時に別のものの認識もあります。すなわち、無限なものの認識です。
耳に入ってくるニュースや、日々の暮らしでの出来事がもたらす衝撃に打ちのめされて、私たちは時折、自分たち自身の存在にうんざりしながらこうつぶやきます。ああ、人間は何と愚かで、醜いのだろう。そのような思いが私たちを捉えるのは、本当は、私たちが完全な愛のような何ものかの存在を予感しているからなのではないか。完全なものが来た時には、部分的なものは廃れるだろう。人間としてのわたしはどうしようもなく惨めであるが、惨めさを知ることのただ中で、もはや惨めではありえないものが示される。それこそは、無限なものの認識であり、考えるという行為のうちで、限りない広がりを持つ宇宙そのものをも包まずにはおかない人間精神の偉大さにほかならない。
パスカルにとっては、人間のうちに宿るこの偉大さの発見は、信仰への導きの書としての『パンセ』にとって、決して欠かすことのできない部分をなすものでした。ともあれ、人間存在の抱え持つ両面をこの上なく的確に言い表す言葉として、「考える葦」は、時を経ても変わらずに輝き続ける水晶のようにして、私たちのもとにまで伝えられています。