今日11月4日は原敬(はら・たかし)暗殺事件のあった日。1921(大正10)年のことです。
明治時代、内閣総理大臣は、薩長中心の伯爵・公爵ばかりでした。新政府軍に負けた賊軍として冷遇されてきた盛岡藩出身の原が、大正7年になってようやく第19代の「平民宰相」となったのです。ところがその3年後、政府に批判的だった男によって東京駅で刺殺されてしまいます。
原は旧藩校、作人舘で佐藤昌介と共に学びました。「北海道大学の父」と呼ばれる佐藤は盛岡県花巻出身で、内村鑑三や新渡戸稲造が学んだ札幌農学校のリーダーとなり、生涯、札幌美以(メソジスト)教会(現在の日本基督教団・札幌教会)に属するクリスチャンでした。その影響もあってか、原は上京して2年間、カトリックの「伝道学校」で学んでいます。原が16歳から18歳にかけての期間なので、かなり自覚的にカトリックから影響を受けたと思われます。伝道学校は最初、横浜天主堂(現在のカトリック山手教会)に寄宿制でラテン語やフランス語が学べる「ラテン学校」として始まりました。現在の日本カトリック神学院にあたります。
原は17歳になったばかりの復活徹夜祭(1873年4月12日)に洗礼を受けました。洗礼名はダビデ。羊飼いの少年からサウル王の下僕として仕え、やがて2代目のイスラエル王となった旧約屈指の人物です。苦学生から学僕となり、のちに日本の総理大臣となる自らの道を暗示しているかのようです。原は校長のマラン神父から殉教者の話を聞いて心動かされ、受洗の決意をしたといいます。
3年ほど新潟伝道に赴くエヴラール神父の学僕として付き従い、マンツーマンでフランス語を学んだのち、紆余曲折を経て、長州出身の外務卿、井上馨に取り立てられ、外交官、そして政治家の道を歩むことになりました。原が官界に入るためには、外国人宣教師について外国語を学び、外交官となるしか道がなかったのです。
その後も原とエヴラール神父は親交を続けています。原が出世街道を進んでいた1884年、エヴラールは次のような手紙を送っています。
あなたはクリスチャンです。だから、信徒の務めを忘れずに果たさなければなりません。……私がつねにあなたに対して変わらぬ愛情を抱いていることを忘れないでほしいと願っています。(『原敬関係文書』第3巻、543頁)
また1912年、福岡の明治通りの拡張・直線化にあたり、カトリック大名町教会が立ち退きを求められたとき、当時、内務大臣だった原にエヴラールが相談したことによって計画は撤回され、今も道路は曲がったまま、教会もその場所にあります。
19年には、横浜山手教会で病死したエヴラール神父の葬儀に秘書を出席させています。この日は皇太子裕仁の成年式典に首相として出席しなければならなかったからです。
原は、自分がカトリックの洗礼を受けたという過去について語ることはあまりありませんでした。ただ、総理大臣になる直前、旧友の佐藤を助けて、1918年に札幌農学校が北海道帝国大学になるのに手を貸しています。
原の応接室には聖母マリアの絵があったといいます。原と親しかった政治記者、前田蓮山が次のように述べています。
原敬の応接室にはストーブのかたわらの壁上に明治天皇、同皇后の小さい肖像をかかげ、その直下に聖母マリヤの画像をかけ……てあった……。エブラルから贈られたものではなかったかと思う。……かれは政治家になっても、宗教にたいする関心をつねに忘れなかったようである。かれが暗殺される数カ月前、……「わがはいは宗教にかんして一家言を有するがねえ」と話しだした。(『原敬』時事通信社、30、37~38頁)。
また、腰越の別荘の庭にも隠れキリシタンの石灯籠がありました(原敬遺徳顕彰会『写真集原敬』18頁)。