1 歴史を知る
ナクバは作り話ではない。本当に起こった出来事だ。1948年のこの出来事のために、多くのパレスチナのアラブ人たちは住んでいた村を追われ、故郷から逃れていった。このとき難民となった75万人のパレスチナ人の子孫は、今日いまだにエジプト、ヨルダン、レバノン、シリアから出られずにいる。この人たちの話は実に心痛むものだ。
何事にも歴史的な文脈があり、ナクバも例外ではない。パレスチナ難民は、イスラエルに対するアラブ人の攻撃の直後に発生した。それは、パレスチナの半分を占める地域でイスラエルが自民族国家の独立を宣言した次の日のことだった。このユダヤ人の新生国家がしっかりと根を張る前に破壊しようと、5つのアラブの軍隊が全方面から攻め込んだ。この運命の決戦は、20世紀が向かう方向性を決定づけた。この攻撃で100万人近いパレスチナ人が命を落とし、難民となった。戦争を始めたアラブの国々は、同じ民族であるはずのパレスチナ難民を拒絶し、難民は地域社会に溶け込むことなく、難民キャンプに閉じ込められたままになった。
クリスチャンは、ナクバの背景、そしてそれがいまだにパレスチナ人をひどく苦しめている原因であることを理解しなければならない。ナクバは、その端緒がどうだったにせよ、パレスチナ人が共有している最も重要な記憶だからだ。
2 パレスチナ人も人間だということを理解する
クリスチャンがあらゆる紛争に向き合う態度は、同情と共感でなければならない。紛争はロボット同士では起きない。人間同士で起きるものだ。人間は、その背景や政治信条に関わりなく、誰もが神の似姿(1コリント15:49)に造られている。
クリスチャンはパレスチナ人を愛し、パレスチナ人の置かれている厳しい状況に同情し、パレスチナ人の話に耳を傾けなければならない。
3 パレスチナ人は実在しており、安全に暮らす権利と自己決定権を保障されるべきことを理解する
ユダヤ人と異なり、パレスチナ人には民族国家がない。イスラエル国家は少なくとも紀元前1200年には成立していたが、パレスチナ人(パレスチナ地方に居住するアラブ人)が民族として認識されたのは、20世紀前半以降のことだ。一部の批判的な論者は、このことをもって「パレスチナ人には民族としての権利はない」と主張するが、これは間違っている。
パレスチナ人という民族は実在する。紛争の文脈で出てくるだけの人々ではない。いつ、どのように持ち始めたにせよ、パレスチナ人には今、民族意識が確かにある。ヨルダン川西岸地区、シリア、ドイツ、アメリカなど、どこに住んでいようとも、パレスチナ人は互いに血がつながっているという意識と歴史的記憶を共有している。私たちがこれを否定する余地はない。
パレスチナ民族は、他の民族同様、安全に暮らす権利と民族の自己決定権を保障されるべきで、パレスチナ人のこの権利を否定することは、その集団的な苦難も否定するものだ。パレスチナ人は、政治的に独立した集団として、何らかのかたちでその存在を保障されなければならない。独自のパレスチナ人国家であれ、より大きな政治的枠組みの中で民族の自主独立性が確保されるかたちであれ、あるいはまったく新しいかたちでのまとまりであれだ。