12月1日「あなたがたも互いに洗い合わなければならない」

主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。(ヨハネによる福音書13章14節)

最後の晩餐(ばんさん)の時、主イエスはたらいに水をくんで弟子たちの足を洗った。当時のユダヤでは、洗足(せんぞく)は僕(しもべ)のする仕事であった。ペトロは戸惑い、主に「わたしの足を洗わないでください」と懇願した。すると、主はペトロに「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)と言った。

事実、弟子たちが洗足の深い意味を悟ったのは、主イエスの死と復活の後であった。福音書は洗足の意味を、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)と記す。弟子たちはしばしば罪を犯して主イエスを悲しませたが、主は彼らを愛し抜かれて、罪にまみれた彼らの足を洗われた。「キリストは神の身分でありながら、...自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・6〜8)。

主イエスは弟子たちの足を洗い終わり、席に着いてから、今日の聖句を語った。私たちは主に従う道を歩みながら、罪を犯し、主を悲しませる人間である。しかし、私たちは落ち込んだり、開き直ったりしない。罪にまみれた足を洗ってくださる主がおられるからである。私たちは大胆に主の前に、罪にまみれた自分の足を差し出し、洗っていただく。主イエスが私たちの罪を十字架の血で洗ってくださると知る時、私たちの内に主の愛があふれ、私たちは新しい力を得て、互いに足を洗い合う主の弟子として立ち上がらせていただく。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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