光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。(ヨハネによる福音書12章36節)
主イエスは死を前にして「わたしは心騒ぐ」(27節)と言った。なぜ主は死を恐れたのか。死を恐れないで往生する者こそ偉大な宗教家ではないのか。人間は死の本質を知らない。しかし、「わたしと父とは一つである」(10・30)と言われる主イエスは、罪人の死が神との断絶であることを知るゆえに、罪人に代わって受ける死を前にして恐れ悩まれた。
神は人間が神の言葉に応答して生きることを求める。もし神の意思を無視して自己本位に生きているならば、その人は神の前では失われた者、「暗闇の中を歩く者」である。その人は神の義が現れる終わりの日が来る時、永遠に失われる。しかし、神が世に遣わされた御子(みこ)イエスは、神の義と愛を示して、人々が神のもとに立ち帰るためにご自分の力を注いだ。その働きの目指すところは、悔い改める者たちが無条件に神に赦(ゆる)され、神に受け入れられるための贖(あがな)いの死であった。主イエスは「わたしは地上から上げられるき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(32節)と言う。主は死を前にして恐れ悩みつつも、「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27節)と言い、「父よ、御名(みな)の栄光を現してください」(28節)と祈って、十字架の死を引き受けられた。主イエスの贖いの死によって、罪を裁く神の義と罪人を救う神の愛は全うされた。
今日の聖句は、神の前に失われた者を見出すご自分の働きと死を示しつつ、救いの光があるうちに、つまり、終わりの日が来ないうちに、「わたしを信じ、光の子となりなさい」と呼びかける主の言葉である。光の子とは、主の言葉に応えて神のもとに立ち帰り、神の義と愛の光を映し出す人のことである。