あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、 その人だ。(ヨハネによる福音書9章37節)
主イエスは生まれつき目の見えない人を癒(いや)した。それは安息日であった。ユダヤでは、安息日は神の前に憩(いこ)う日として、律法によって一切の労働を禁じられた。律法を守らない者は罪人と断定され、会堂、すなわちユダヤ人社会から追放された。安息日に癒しの業をした主イエスは神の冒涜者(ぼうとくしゃ)とみなされた。また、主イエスをメシアと信じる者も会堂から追放された。
主イエスをどう思うかと尋問された両親は、ユダヤの指導者を恐れて「本人にお聞きください」と言った。いやされた人は答えた。「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです」。この答えによって彼は追放された。
しかし、主は彼を一人のままにされない。彼のところに来て、「あなたは人の子を信じるか」と語りかけた。彼が「主よ、その方はどんな人ですか」と問うと、主イエスは今日の聖句を語った。彼が主イエスを知る前から、主は彼に目を留めておられた。彼は「主よ、信じます」と言って、主の前にひざまずいた。「イエスは主である」という信仰によって、彼は一人になっても生きることができる。主イエスを信じる者は、たとい一人になっても、共にいてくださる主イエスを知るからである。人との交わりは大切である。しかし、孤独を恐れて、人と群れたり、人に寄りかかる者は、良い交わりを持つことはできない。一人でいることのできる者が、人の言動や周囲の情勢に左右されない自立した精神をもって、真に人との交わりを持つことができる。