わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。(ヨハネによる福音書8章11節)
律法学者たちは姦淫(かんいん)を犯した女を引っ張って来て、主イエスが律法に忠実かどうかを試す悪意を秘めた質問をした。主イエスは彼らに 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言うと、意表をついた主の言葉に良心を刺されて、年長者から一人また一人とその場を去り、主イエスと女だけになった 。女はここにいる方だけが自分を裁くことができるのだと予感して、 身を震わせた時、主イエスは彼女に今日の聖句を語った 。「もう罪を犯してはならない」という言葉からも明らかなように、主は彼女の罪を見逃したのではない 。主イエスは彼女のためにご自分が代わって罪の裁きを引き受ける決意をしておられた。その死によって彼女の罪を贖(あがな)う方として、主イエスは語ったのである。
ある伝道者が主イエスの十字架の死を尻拭いにたとえて説教した。うんこにまみれた幼児の尻を親が愛情を込めて拭うように、主イエスは罪にまみれた私たちの尻を拭ってくださった 。うんこは放っておくと、周囲を臭くするだけでなく、幼児の体を蝕(むしば)むように、罪も放っておくと私たちを蝕んでゆく。主イエスの十字架は私たちの罪を尻拭いしてくださった神の愛である、と。この女は自分の罪のために主が命を捨ててくださったと知る時、心から悔い改め、罪と戦うようになるであろう。「大胆に罪を犯せ。そして、それよりも罪と死の勝利者であるキリストをさらに大胆に信じ、 喜び給え。考えても見給え。私たちの罪のために、小羊キリストによってなされたこんなにも大きな賠償金が、そんなに小さいものであろうか」(ルタ ー)。