6月15日「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」

わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた。(コリントの信徒への手紙I 2章2節)

パウロは伝道のためにコリントに行った時、「わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(3節)と言っている。伝道する者はこのような恐れや不安を経験するであろう。パウロは伝道を前にして恐れと不安に襲われた時、心に決めた二つのことを語る。今日の聖句はその一つである。

伝道とは福音を伝えることである。福音の中心は十字架のキリストである。十字架のキリストを語らないなら、福音を語るとは言えない。キリストの十字架の意味や教義を語ればよいというのではない。十字架につけられたキリストとは、私たちを罪から贖(あがな)うために死んでくださったキリスト、今も十字架の上から贖いの愛を注いで、私たちのために執り成しておられる生けるキリストである。その愛が私たちに勇気を与える。それゆえに、パウロは行く先で恐れと不安に襲われた時、十字架のキリストだけを仰ぐ決心をした。

伝道する時に、パウロが心に決めたもう一つのことは、「知恵にあふれた言葉によらず、”霊”と力の証明」(4節)によって語ることであった。福音を語る時、知恵が必要でないというのではない。しかし、どんなに知恵にあふれた言葉を語っても、聖霊によらなければ、すなわち、神が語ってくださらなければ、福音は人の魂に伝わらない。聖霊が働く時、福音の宣教を通して人を救い、人を新たに生かす神の力が現れる。伝道において神の霊と力が証明される。ゆえに、伝道する者は聖霊の導きを祈りつつ福音を語り、あとは神に委ねて御業を待てばよい。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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