6月1日「裏切るその者は不幸だ」

人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。(マルコによる福音書14章21節)

弟子のユダが主イエスを裏切った。ユダもまた、他の弟子たちと同じように、主イエスをメシアと信じ、イスラエルを復興する王と期待して、従った。しかし、主イエスを取りまく状況が悪化した時、彼は主に従うことに見切りをつけ、主を引き渡した。私たちはユダだけが特別に罪を犯したと考えてはならない。私たちは皆、自分の願望や期待に応える神は歓迎するが、そうでないと分かると、ユダのように捨てる。神に従うのではなく、自分たちの願望や期待に神を従わせる。ここに、私たちの罪がある。罪とは、神との正しい関係を損なっていることである。

十字架の死を前にして、主イエスは弟子たちと過越の食事を守った。この食事によって、主はご自分の死を過越の成就、すべての人の罪の贖(あがな)う神の小羊として示した。すなわち、罪人を裁く神の義を超えて、すべての人の罪を赦(ゆる)す神の恵みを指し示した。

「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」と今日の聖句が語るように、主イエスの死は神のご計画であった。それでは、ユダの裏切りも神の計画だったのか。否、「人の子を裏切るその者は不幸だ」(21節)と主は言う。ユダもまた、罪の贖いの恵みを指し示す「主の晩餐」に招かれている。彼が罪を告白して、主に自分を明け渡すなら、その罪は主イエスの贖いの恵みによって覆われる。しかし、ユダはそうしなかった。自分の罪に気づいて絶望した時、彼は主のもとに行かず、絶望のうちに死んだ。神は彼に対しても最後まで恵み深かったが、彼は絶望した自分の殻の中に閉じこもった。絶望は「死に至る病」である。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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