預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。(マルコによる福音書6章4節)
主イエスは故郷のナザレに帰って来た。そして、安息日に会堂に入り、説教をした。説教を聞いたナザレの人々は、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。...この人は、大工ではないか」と言って、主につまずいた。主イエスは学者のように律法を解説したのではなく、いつものように「神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と福音を語って、人々に信仰の決断を求めた。そこで、人々は主イエスが権威を持って語るその根拠を問題にした。主イエスは祭司でも、律法学者でも、権力者でもなかった。故郷の人々は主イエスが大工であるという先入観によってつまずいた。
今日の聖句は、主イエスが人々の不信仰に対して、引用したことわざである。「錦を飾って、故郷に帰る」と言われるように、政治や事業に成功し、有名になった人が戻って来るなら、故郷の人々は歓迎するであろう。それは故郷の誇りであり、利益をもたらすからである。しかし、預言者は神の言葉を語って、人々にその生き方を根本から変えるように迫る。そういう人は歓迎されない。やがて、会堂の扉は主イエスに対して閉ざされた。
私たちも「神の国」の福音を語る主イエスの説教を聞いて、主イエスを神の御子、救い主と信じることができるだろうか。それは人間の理性にはつまずきである。主イエスは「わたしにつまずかない者は、幸いである」(マタイ11・6)と言った。信仰とは、理性にはつまずきであるにもかかわらず、主の言葉を聞いて、「あなたを信じます」と告白することである。この信仰によって、神と私たちとの間に真実の交わりが生まれる。「神の国」は、主イエスを信じる信仰によって、神との真実の関係が成り立つところである。