他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。(マタイによる福音書27章42節)
私たちは神に造られ生かされているのに、神を崇(あが)めず、人間の判断を中心に据えて物事を考え、行動している。しかも、神に従うのではなく、神さえも自分に従わせようとしている。主イエスはそのような私たちの所に来て、神に信頼し、神の御心に従う生き方こそ、神との正しい関係であり、神の祝福にあずかる道であると説いた。そして、神のもとに立ち返れと呼びかけた。しかし、私たちはその言葉に聞き従うことを良しとせず、主イエスを十字架にかけた。
今日の聖句は、十字架にかけられた主イエスを見て、人々が叫んだあざけりの言葉であるが、私たちもその場所に居たなら、このように叫んだであろう。「私たちの言うことを聞け。そうしたら、信じてやろう。私たちの言うことを聞かない神、役に立たない神は信じない」、と。主イエスが私たちの言うことを聞いて、十字架から降り、その力を現したら、私たちは主に聞き従う者となっただろうか。否、私たちはますます神に対して傲慢(ごうまん)になるか、神によって滅ぼされるか、どちらかである。主イエスが十字架から降りて来なかったのは、右も左もわきまえない私たちであっても、一人も滅びることを願っていないからである。主は私たちの罪に耐え、私たちの罪の災いを引き受けて、私たちが神に立ち返る日を待っておられる。「あなたは恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(ヨナ書4・2)。十字架にかけられたままの主イエスの姿に神の忍耐と慈しみを知るとき、私たちは真に悔い改めて、神に立ち返るであろう。