あなたたちは、…空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。(マタイによる福音書16章3〜4節)
サドカイ派は死人の復活はもとより、霊の世界を信じない現世主義者であった。彼らが神殿に行って礼拝するのは、宗教儀礼であり、ユダヤ人としての「たしなみ」であった。日本人にも、サドカイ派のような宗教観を持っている人が多い。これに対して、ファリサイ派は形骸化したユダヤ教を批判する信仰復興運動グループであった。彼らは律法を守ることに熱心であり、律法を守らない人々を蔑(さげす)み、敵視しさえした。今日も、崇(たた)りや裁きを説いて人の心を怖れで縛る宗教が現れる。信者は教祖に洗脳されて画一的な行動を取るので、一見、熱心であるが、自分たちを批判する者を敵と見るから、対話が成り立たない。
儀礼化した宗教に対しても、熱狂的で自他を分離する宗教に対しても、主イエスはその間違いを指摘した。そこで、両派とも主に対し敵意を抱き、「あなたが神から来た者なら、そのしるしを見せよ」と言った。これに対する主の答えが今日の聖句である。すなわち、「ヨナのしるし」が指し示す十字架の死と復活が、主イエスが神から来た者であるしるしである。主イエスの言葉と業、その死と復活こそ、人間が自らの存在意味を問う宗教的な問いに対する神の答えである。人間は偶然に生まれ偶然に死ぬのでなく、神に創造され生かされて、主イエスにおいて啓示された神の御心に応えるべき存在である。そして、どのような時代であっても、神が支配している「時」のしるしを見分けて、信仰と希望をもって生きるのである。