「あなたがたは地の塩である。……あなたがたは世の光である」(マタイ5:13、14)
今日の聖句について、このような解説があった。「弟子である信仰あつき者は、社会の塩、つまり道徳的にしっかりした善良な者として、模範とならなくてはいけないという意味」。しかしこれは、主イエスの説教を道徳や処世訓と誤解した例である。主イエスは「地の塩になれ」とは言ってはいない。罪人を無条件に赦(ゆる)す神の祝福を受けた弟子たちに、「あなたがたは地の塩である」と言われた。当時、塩は高価であったから、神の祝福を受けた弟子たちを高価で尊い存在として主イエスは語ったのである。
自分を顧みれば、私たちは善良な人間でもないし、人の模範にもなれない者である。しかし、そのような者が神の祝福を受けた。その祝福のゆえに主は、「あなたがたは地の塩である」と言う。私たちは、神から受けた祝福を携えて世に味をつけ、この世の腐敗を防ぐ塩となる。もし私たちが神の祝福によって生きることをやめれば、「もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(13節)。神の祝福である「塩」は、私たちが本来持ち合せているものではない。
主イエスはまた、神の祝福を受けた者は「世の光である」と言う。神の祝福を受けた者は、星が太陽の光を受けて輝くように、その祝福を世に輝かす。それは、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇(あが)めるようになるためである」(16節)。「立派な行い」とは、神の祝福を喜び、神を礼拝し、神の祝福を証しする行為である。それは神の栄光を現す行為であって、道徳的に立派であると言われるための行為ではない。これが「地の塩、世の光」と呼ばれる意味である。