あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(ルカによる福音書15章4節)
ユダヤの社会に、神の律法を守らない、実際には守れない底辺の人々がいた。ファリサイ派の人々や律法学者は彼らを罪人(つみびと)と呼んで、交わりを持たなかった。この人々が主イエスのもとにやって来て、主イエスは彼らと一緒に食事をした。ファリサイ派の人々や律法学者は主イエスを「ラビ」と呼び、律法に通じた教師と認めたが、罪人たちを迎えて食事まで一緒にする主イエスを非難した。そこで、主イエスは譬(たと)えを語り、今日の聖句によってご自分の行動を、失われた1匹を捜し続ける羊飼いとして説明した。
人は神と向き合う者として造られ生かされているのに、神と向き合わず、神の家から迷い出ている。人は神の前に失われた者となっている。その失われた一人ひとりを、神は他とは取り代えられない大切なものとして、「見つけ出すまで捜す」。神は御子(みこ)イエスを通して、失われた者を捜し、見つけると喜ぶ神の愛を現した。自分は正しいと言う人も、神の喜びが分からなければ、神の前に失われた者である。
近年、自殺者が多く、しかも、自殺の低年齢化が進んでいる。この事態を憂慮して、政府は自殺者減少政策を打ち出すという。しかし、人の命が軽くされているこの社会の病は、政府の政策や善意の人々の努力だけでは解決しない。私たちは神の前に失われた人間であり、その失われた者を捜し、見つけると喜ぶ神の愛を、主イエスの福音を通して知ることである。私たちは自分が神に愛されている者、失われてはならない価値ある存在であると知ることによって、生きる意味と勇気を与えられる。