8月17日「災難に遭ったのは、罪深い者だったからだと思うのか」

そのガリラヤ人たちが災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。(ルカによる福音書13章2〜3節)

ピラトはガリラヤの巡礼者たちが騒動を起す危険を察知して、兵隊を送り、神殿でいけにえの動物を捧(ささ)げていたガリラヤ人を殺した。いつの時代でも、政治的・社会的事件に巻き込まれて殺される人たちがいる。しかし、なぜ彼らは事件に巻き込まれて死んだのか。人々は彼らが他の人間より罪深かったから神の罰が当ったと考えて、主イエスに問うた。しかし、主は今日の聖句を語って、彼らの死と神の罰を結びつけることを強く否定した。

主イエスはシロアムの塔が突然倒れて18人の人が死んだ事件を取り上げ、これも神の罰ではないと語った。いつの時代でも、突発的な事故や災難に巻き込まれて死ぬ人たちがいる。そして、これを罪に対する神の罰と説く因果応報説も根強い。しかし、主イエスはこれをきっぱりと否定する。神は世界を支配しておられるが、世界で起こるすべての出来事が神の子によるのではない。神は人間を自由な意思をもって行動する者として創造した。世界の出来事はこの人間の行動によって起こされる。だから、すべてを神のせいにしてはならない。

主イエスは神の罰という因果応報を否定したが、人はだれでも、悔い改めなければ滅びると言う。悔い改める」とは方向転換するという意昧である。罪を後悔することではなく、完全に神に立ち帰ることである。神の栄光を現す者として造られ生かされている人間が神に背を向けている。人はその罪を悔い改めて神に立ち帰らなければ滅びる。主イエスはどのような死に方であれ、人は死ぬという現実を示し、死は神の裁きの時であると告げる。それゆえに、今が悔い改める時である。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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