僧侶となる時の訓戒として聞く言葉がいくつかある。例えば「あなた自身が偉いのではない。座が偉い、着ている衣が偉いのである」。肝に銘じよ、と言われる。お坊さんは、「先生」「上人」「老師」「お坊様」「ご住職」と呼ばれて敬われることが多い。上座の席にも座らされる。コミュニケーションとして相手を一個人として尊重するとしても、とりあえず下手に出てくる場面によく遭遇する。そんな時にお坊さんは勘違いをしてはいけない。あなた自身に偉さが付与されているのではなく、あなたの着ている衣、すなわち仏教の偉大さが後ろに透けてあるからこその畏敬の念なのだ。教えを説く悟った者に、その教えに、その教えを慕う仲間に手を合わせている。そんな先人たちの歩んだ道が素晴らしかったのだと。
僧侶とは仕事か生き方か、という問いも訓戒としてよく聞く。臨済宗の大燈国師のご遺誡では、「この山中に来たって道の為に頭を集む、衣食の為にすること莫かれ」とある。収入を得る手段としてではない。仏道のために山に集まり修行するのだぞと。「釈迦も達磨も修行中」なのだ。もちろん仕事としての僧侶像も大切だと自認している。周りの人たちが「先生!」と呼び、「どうぞ上座に座ってください」と役割を与えてくる場合がある。その流れに乗ることで伝えられる機会がある。
宗教家だからこそ、仕事か生き方かという問いが成立する。宗教は世界のあり様を説いてくれている。その内容の語る声を、周りから背負わされているのではなく、自分自身がそうだなとうなずき、承知することで信仰の扉は開く。世間とは違う評価軸が得られる。キリスト教で言うならば、我々の自認にかかわらず、彼の方は罪を背負い、お亡くなりになられたことを承知するだろうか。仏教で言うならば、こうしていろいろなことを考えるベースである自分とは諸行無常であり諸法無我だ、と承知することだ。
「自分」とは何であろうか? 人生において、さまざまな角度から考える問いだ。「自分とは**です」と自己表明することもあれば、**とは何であろうかと問うことで、自分は何者か考えることもできる。例えば、手に持っている仕事とは、所属する家族とか、好きな趣味とは、時間の使い方とは、何を大切に生きているか、幸せとは。
本当の宗教とは、問いを持ち、疑い、考えることが許されている。等身大の自分を大切にすることが認められている。カルトにはそれがない。私が僧侶として生きる中で、この「自分」をどう捉えるかは、仏教を伝える上で欠かせない軸となる。お経を読み、法話をし、檀家さんと向き合う時、私は「自分」を語っているのだろうか。それとも、仏さまの教えを媒介し、目の前の人と共に「自分」を探しているのだろうか。
「自分」とは固定された何かではなく、常に変わりゆく流れの中にあるものだ。諸行無常とは、寂しい言葉ではない。変わり続けるからこそ、新しい出会いや気づきが生まれる。諸法無我とは、私という枠を超えて、すべてのものとつながっていると気づくことだ。法事を勤める時、私は思い出す。私がここにいるのは、仏の教えがあり、先祖代々のつながりがあり、今を生きる人々がいるからだと。衣をまとう時、私は自分の小ささと、教えの大きさを同時に感じる。ただ、仏の道を、私なりに歩み、伝えたいと思うだけだ。その気づきを、少しでも有縁の方と分かち合えたなら、それが私の務めだと思っている。
向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。