【クリスチャンな日々】第32回 断食は機嫌が悪くちゃ意味がない MARO

主の御名をあがめます。

MAROです。ずいぶんと暖かい日が増えてきて、春はもうすぐそこと思えます。今年の春は少しばかり早いような気もしますが、昔から「春よこい、早くこい」と歌うくらいですから、「温暖化が・・・」とか「異常気象か・・・?」とか気にせず、素直に喜ぼうと思います。

さて、キリスト教界で春といえば、イースターです。イースターというのはイエス様が十字架の死から復活したことを祝う日です。そして今はすでに、そのイースターを待ち望む、受難節という時期に入っています。受難節にはイエス様の苦しみを思い起こすために、断食をしたりする人も少なくありません。完全な断食は難しくとも、できるだけ粗食にするとか、肉類を食べないようにするとか、お酒を断つとか、それぞれのやり方でイエス様の苦しみを思い起こし、イースターを待ち望みます。もちろん、何もせずに普段通りの生活を送る人も多いですけれど。

先日、とあるクリスチャンの方からこんな話を聞きました。受難節にお酒を断つことにして、断酒生活を続けていたのですが、そうしたらストレスが溜まってしまって、機嫌が悪くなりがちになってしまったのだそうです。やがてその不機嫌は周りの人にも向けられるようになってしまい、しまいにはある人から「そんなに機嫌悪くなるくらいなら、お願いだからお酒を飲んでくれ」と言われて、それでハッと「本末転倒だった」と気づいたのだそうです。

聖書では断食のやり方について、イエス様がこんなことを言っています。

あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。・・・断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。(マタイ6:16〜17)

頭に油を塗るってどういうこと?と現代の感覚では思ってしまったりもしますが、これは「肌ツヤや顔色をよく見せておきなさい」ということで、つまり「断食していることが人に分からないように断食しなさい」ということです。

イエス様がこのことを話した当時には、わざわざ人に見えるように断食をして、「どうだ俺はこんなに断食をしてエラいだろう!」と見せびらかしたり人を見下したりする人たちがたくさんいたんです。

機嫌が悪いというのは「人に対して攻撃的だったり失礼だったりする状態」です。見せびらかして人を見下すというのも、一種の攻撃であり失礼なことです。「断食している自分は人に失礼であってもいいんだ」なんてそんなことはありませんよね。断食していようと何しようと、いつも通り人には親切に接するべきです。

これは断食に限ったことではありません。僕たちは仕事や勉強で何か大変な課題を抱えている時、機嫌が悪くなりがちですし、「自分はいま大変なんだ」と周りの人にアピールしてしまいがちです。「自分はこんなにがんばっているのに!」と人を見下しがちです。しかし、それはよくないことだよと、イエス様は教えてくださっているんです。「大変な時には不機嫌であってもいい」なんて、そんなルールはどこにもないんです。大変な時であってもいつも通り人に親切に接しられる人が、本当に立派な人です。

僕の父は昔、時々僕を遊びに連れ出してくれましたが、それで疲れてしまうと「今日はお前を連れてきてやったせいで疲れたんだ」とか「本当は今日は家で休んでいたかったんだ」とか、機嫌が悪くなることがありました。そうなるとせっかく楽しかった遊びも台なしで、「そんなこと言うなら最初から遊びに連れてってくれなくてよかった」とか思ってしまったものです。

でも、大人になった今、気づくと同じようなことを僕もちょくちょくやってしまっています。「今日は仕事が大変だったから、機嫌が悪くても仕方がない」とか、ついつい自分が機嫌の悪い「口実」や「言い訳」を作って、そして本当に機嫌悪く過ごして、人に対して機嫌悪く接してしまったりすることがあります。でも、僕の仕事が大変だったことは、僕と接する人には基本的に関係のないことです。その人に見えるものは「機嫌の悪いMARO」だけです。

「大変な時こそ機嫌良く!!」と、普段から自分に言い聞かせているのですが、なかなかうまくいきません。いざ大変なことにぶちあたると、気づけばやっぱり機嫌が悪くなったりしてしまいます。でもだからこそ、やっぱりもう一度、「大変な時こそ機嫌良く!」と自分に言い聞かせ直そうと思うのです。イエス様の教えてくださることは「言われてみればあたりまえ、納得!」なことも多いのですが、だからと言ってそれを実行するのはなかなかあたりまえにはできない、ということも多いのです。むしろきっとそれが難しいのを知っているからこそ、それをしっかりと教えてくださるのだと思うのです。

難しいのはわかってるよ、それでも心がけることが大事だよ。とそんな風にやさしく、イエス様は教えてくださるのだと、思っています。

ちょっと疲れてきたので機嫌が悪くなるまえに、甘めのミルクコーヒーを飲もうと思います。皆様も機嫌良く春をお迎えください。

それではまたいずれ。
MARO
でした。

主にありて。

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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