大人の都合ではなく、その子に対して犠牲を払う 子どもの自死を考える「9月1日問題」 久保木聡牧師に聞く

 

夏休み明けの9月1日は、他の日に比べ、子どもの自死率が高い。厚生労働省の統計によると、2016年に自死に至った19歳までの人数は488人。そのうち、その原因が「学校」であるとしたのは169人。自ら死を選ぼうとする子どもに教会は何ができるだろうか。

多くの子どもや青年に寄り添ってきた日本ナザレン教団・鹿児島教会牧師の久保木聡(くぼき・さとし)さんに話を聞いた。

久保木聡さん

──夏休みが終わりを迎える時期の子どもたちの様子を教えてください。

早く学校に行きたくてたまらない子もいれば、憂鬱(ゆううつ)になっている子もいます。宿題を必死にやっている子もいれば、終わっている子、あきらめている子もいる。そういったことでも、2学期の学校の行きやすさが変わってくるでしょう。1学期、教師やクラスの子との人間関係がうまくいっていなかったら、2学期からどうしていいのか、戸惑いと混乱がとても大きくなっている子もいます。

──その中でも、特に気にかけていた子はいましたか。

家にいても安らぐことができていない子がいました。学校は楽しいこともあるし、成長の場でもありますが、勉強についていけなくなったり、クラスメイトとの関係が悪化したりと、ある種の戦場にもなってしまいます。家で休息して充電できていないと、戦場には出かけていけません。

親が悪いと言っているのではありません。親も必死で働いて、心安らぐ家庭を築こうとしている。でも、子どもが休息を得るには埋め合わせることができないさまざまな要因があって、子どもが学校に行けなくなっているケースも見てきました。

──家庭や学校の悩みを抱えて、行き場を失った子が教会を訪ねてきたとしたら?

話をしっかり聞き、趣味につきあいます。クワガタやカブトムシの専門店が気に入っている子どもがいて、何度も連れて行ったことがありました。「バッティング・センターに行きたい」と言えば、行きます。「教会の集会に出なさい」「聖書の学びをしましょう」とは言いません。出席したくなれば集会に出るし、自分で聖書を学びたければ学び始めます。彼らは大人の都合の犠牲者でもあるので、それに巻き込むことはなるべく避けます。むしろ、その子の都合に対してこちらが犠牲を払うことを大事にします。

──さらに行き場を失い、自死を選んでしまう子がいます。その原因は何だと思いますか。

「ダメなままでも生きていていいんだ」と安心して思える居場所があるかどうかなんでしょうね。格差が大きくなって、共働きの家庭も増えています。また、シングルで子育てをしているケースもあって、親が働きながらだと、子どもを受け入れる余裕を確保することが難しいこともあるでしょう。もちろん、そういう状況でもしっかりコミュニケートして、子どもに居場所が確保されていることもあるので、それだけが原因とも思いません。

「子ども一人育てるには、一つの村が必要」というアフリカのことわざがあるそうです。核家族化し、親だけが子育ての責任を背負うことで、子どもの居場所が限られてしまっている現実があります。現代社会の中で、その「村」、有機的なネットワークを作れるかどうかは重要な課題でしょう。教会はどうやったらその村の機能を果たせるのかも、大きなチャレンジだと思います。一人の子どもの人生を守るには、一つの家庭ではなく、一つの村並みの社会的なネットワークが必要なんです。

──今、この瞬間にも悩んでいる子どもがいます。どんな言葉をかけますか。

まずは、「電話やメール、リアルでも、動画チャットででも、ゆっくり話そうよ。本音を聞かせて。何言ってもいいんだよ」ということ。学校に行くだけが人生じゃないけど、それを頭ごなしに言っても伝わらないので、まずは葛藤して考えがまとまらないままの気持ちをぶつけてほしいと思います。

しばらく共に過ごしたら、次のようなことを言うかもしれません。「学校に行けない自分を見て、『何もしていない』と思うかもしれないけれど、頭と心はフル回転して、学校に行っていないのに、ひどく疲れる。その意味で君は、学校に行っている時のほうが楽だったりするんだ。僕も君に『よく頑張っているよ』と言いたいし、君も自分に『よくやっているね』と言えると、少し楽になるんじゃないかな」

さらに親しくなれば、こう伝えたいですね。「神さまは君の経験を絶対無駄にしないからね。同じような境遇を通った人に慰めと励ましをもたらす人に必ずなれるよ」

守田 早生里

守田 早生里

日本ナザレン教団会員。社会問題をキリスト教の観点から取材。フリーライター歴10年。趣味はライフストーリーを聞くこと、食べること、読書、ドライブ。

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