掃除のおばちゃん理論 山口元気 【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】

その教会はとても明るい教会でした。牧師自身も明るく朗らかで、いつも微笑みを絶やさない素敵な先生でした。その牧師がある時、不登校児のケアを依頼され何度か自宅を訪問したのだそうです。何度目かの訪問の時のこと。扉を開けると、その子が土下座して待っていました。そして、こう言うのです。「先生、お願いですからもう来ないでください」。一体なぜ? その牧師はこう懐述していました。「私が『明るすぎた』のです」。確かに教会が、牧師が、明るいのは素敵なこと。でもその明るさを重たく感じる人、眩しすぎると感じる人もいるのだということを心に留めました。

さて、巷はSNS全盛時代。スマホの画面に映し出されるのは人々のキラキラとした一瞬を切り取った、いわば「瞬間最大風速」の1コマばかり。伝道のためにSNSを取り入れている教会も、教会の楽しげな瞬間をカシャッと切り取って「こんな素敵なところだよ!」とアピールしています。無論、大事な試みです! 宣伝効果もバッチリでしょう。けれども、ちょっとだけ心にかかるのです。「教会はこんなに素敵なところ、こんなにキラキラしたところ」……これだけを押し出していて良いのだろうか……。素敵な写真を見て「私も行ってみよう!」と思える人はいいでしょうが、そんな写真を見せられてかえってしんどくなってしまい、「自分は場違い」と感じて引きこもってしまう人たちも少なからずいるのではないか……。そして教会は、むしろこのような人たちにこそ手を差し伸べるべきではないか……と。

そういえば、前任地で会堂と牧師館を建て替えた時、建物がきれいになった途端に生活困窮者の方々が不思議なほどパタッと来なくなりました。建物が整ったのは嬉しかったのですが、それによって本当に助けを、救いを必要としている人々に対して教会の敷居を高くしてしまったのではないかと気になりました。会堂を整えることは大切だし教会の「魅力」を発信することも不可欠ですが、もしかするとそのような努力が教会の自己満足になってしまっている場合もあるのかもしれません。教会がもっと目を向けるべきは、他にあるのではないかと思うのです。

先日、地区の牧師会の発題であるエピソードを耳にしました。それ以来、ずっとその話が頭から離れず、事あるごとに思い出されるのです。ある教誨(きょうかい)師の実話。彼は自らの教誨活動に行き詰まりを覚え、さまざまな葛藤と重荷を抱え、ついにはアルコール依存症と診断されました。入院先には何人ものカウンセラーがいたそうですが、彼曰く「彼らはまるで医者のように振る舞い、患者を治療してやっているというような目線の高いオーラをらんらんと発していた」のだそうです。じゃあ患者さんたちが一番気さくに、心を開いて話していたのは誰だったか。それは、手を動かしながらうんうんと耳を傾ける「掃除のおばちゃん」でした! この時の入院体験を経て彼は自分の教誨師としての歩みを問い直され、次第にその教誨も変えられていきました。そして、彼がいわば「掃除のおっちゃん」のような教誨師になった時、それまで彼を遠ざけ心を閉ざしていた受刑者たちが、自ら心を開いてくれるようになったというのです。

キラキラのSNSに疲れを覚える現代人が心の奥底で求めているのは、誰もが思わず鎧を脱いでしまうような「掃除のおばちゃん、おっちゃん」なのかもしれませんね。若者がいないと嘆く地方教会ですが、もしかすると人材の宝庫だったりして……⁉

やまぐち・げんき 1983年神奈川生まれ群馬育ち。17歳のクリスマスに受洗し、19歳で東京神学大学へ。日本基督教団都城城南教会(宮崎)を経て2020年春から日本基督教団山田教会(三重)牧師、常盤幼稚園理事長、園長。最近の趣味は捨て活、サ活、あてなきドライブ。

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