中国共産党の指導者であった毛沢東は中華人民共和国の成立(1949年10月)以降、自らが理想とする「共産主義社会」の実現へ向けて、たび重なる政治・社会運動を発動した。1950年代初頭から本格化した一連の運動は、「中国のマルクス・レーニン主義」としての「毛沢東思想」の絶対化を伴う形で進められた。ここに、毛が中華人民共和国の「聖人」「導師」として、自らの価値観で人民を「導く」図式が出現した(銭理群、2012年)。そして、「毛沢東思想」が事実上、中国人にとっての「常識」や「道徳」の基準とされるに及び、ある個人がそれ以外の倫理的・道徳的価値観を人生の指針とすることはそれ自体、国家と社会への敵対行為と同一視される事となった(中津、2009年)。加えて、1960年代初頭に『毛沢東語録』が出版され、中国における新たな「聖典」とでもいうべき位置付けがなされるに至り、毛と「毛沢東思想」は神聖不可侵のものとなった。毛の権威に対する絶対化はこうして、無神論の社会における疑似「宗教」としての色彩を帯び始めたのである。
反宗教的指導者である毛沢東を事実上、神に等しい存在とするこのような社会のあり方が、キリスト者をはじめとする、信仰に生きる人々に大きな試練をもたらしたであろうことは想像に難くない。それが最も深刻な形で現れたのが、1966年に毛が共産党・政府内のいわゆる「資本主義の道を歩む実権派(「走資派」)」の打倒という目標を掲げて発動し、10年間にも及んで中国社会全体を混乱に陥れた「プロレタリア文化大革命(1966~76年、「文革」)であった。その初期段階に出現し、文革の「実働部隊」となった青少年の集団である「紅衛兵」は毛への忠誠を掲げると同時に、「四旧(旧思想・旧習慣・旧文化・旧風俗)」への破壊行為を本格化させた。
この状況下において、宗教が彼らの攻撃を免れることは不可能であった。特にカトリックをはじめとするキリスト教は、中国近現代史上における欧米「帝国主義」勢力の中国への勢力拡大の「手先」と見なされてきたがゆえに、他の宗教よりも激しい迫害を受けることとなった。紅衛兵によるカトリック教会への攻撃は、1966年8、9月に発生した北京の「北堂カトリック教会」の破壊 、「マリア・フランシスコ女子修道会」の外国籍修道女への批判闘争、上海での「天主教愛国会」の張家樹(上海教区司教)らへの暴力や徐家滙カトリック教会での破壊行為に象徴されるように、暴力と破壊を伴って拡大した。その過程では、紅衛兵が司祭や修道者に「毛主席万歳」のスローガンを叫ばせ、さらにキリストや聖母マリアへの侮辱を暴力により強要する事例も出現した(劉文忠、2008年)。教会を破壊する紅衛兵の姿はまさに、「聖なる場所を荒らす者」のそれであった。だが、「私の他に何ものをも神としてはならない」という神の教えを心に刻んだ信仰者たちは、神への冒瀆を強いる紅衛兵の暴力に屈することはなかった。
紅衛兵にとって、キリスト教を「帝国主義の残滓」として攻撃することは、「革命」の大義を体現する行為であった。彼らはそれゆえにキリスト教、さらには宗教全体を「荒らす者」となったといえる。そして、文革という「革命」の嵐の中で、信仰者たちの「艱難の時」が始まったのである。
【参考文献・論文】
劉文忠『反文革第一人及其同案犯』崇適文化出版(マカオ)2008年。
銭理群『毛沢東時代和後毛沢東時代(上)(下)』聯経出版(台北)2012年。
拙稿「中華人民共和国建国を巡るカトリック教会・ローマ教皇庁の動向:カトリック教会・ローマ教皇庁の視点からの分析」『中国21』Vol.23 愛知大学現代中国学会編、東方書店2009年。
中津俊樹
なかつ・としき 宮城県仙台市出身。日本現代中国学会・アジア政経学会会員。専門は中国現代史。主要論文は「中華人民共和国建国期における『レジオマリエ』を巡る動向について」(『アジア経済』Vol.57,2016年9月)など。