「プロレタリア文化大革命(1966~1976年、文革)」のなかで、キリスト教をはじめとするすべての宗教は「迷信」として攻撃の対象とされた。文革以前は、宗教は無神論を標榜する共産党と政府による「保護」と「公認」という名目のもと、宗教儀式などの限定的な活動を認められていた。
しかし、文革の発動に伴い、それらは例外なく中断に追い込まれた。加えて、中国では1960年代初頭から、個人の政治的・社会的評価を「出身」、すなわち各自の家庭的背景によって区分する「成分論」が定着していた。そして、文革期には、「成分」が「地主・富農・反革命分子・右派・悪質分子」に該当するとみなされた人々を、「黒五類」として敵視する風潮が正当化されるに至った。
これらの状況から言えば、宗教を信仰する人々は無神論と相いれない価値観を持つがゆえに、「黒五類」とされることは不可避であった。また、地区の住民を管理する「居民委員会」は、住民の「宗教信仰」の有無も把握していた[文浩(Wemheuer)、2024年、72]。ここに、公開の場での宗教儀式のみならず、個人的な信仰生活すらも極めて困難となる事態が出現したのである。すべての信仰者にとって文革とは、信仰によってもたらされる「光」が無神論者からの迫害によって覆い隠される、「闇」の時代そのものだったであろう。
だが、そのような「闇」ですらも、キリスト教をはじめとする信仰に生きる人々の心の中から神への信仰を完全に消滅させることはできなかった。むしろ、多くの信仰者は文革という「闇」にあって信仰を守り続けた。カトリック教会では、ローマ教皇パウロ6世(教皇在位1963~1978年)が1967年1月の「キリストの公現」のミサ中の説教で、中国のカトリック教会である「天主教愛国会」が置かれている状況への憂慮を表明すると同時に、中国当局に対話を呼びかけた[宗可光、2008年]。
一方、中国国内ではカトリックの聖職者と信徒が文革を「教難」、すなわち信仰の危機と位置付け、祈りによって困難な状況に立ち向かう決意を新たにした。例えば、ペトロ・ヨゼフ范学淹(河北省保定教区司教、1907~1992年)=写真=は文革以前に国家によるカトリック教会への統制に抵抗し、たびたび投獄されていたが、文革期には「教皇ピオ12世により正式に叙階された司教」として、密かに宣教活動を続けた。また、河北省のカトリック信徒の間では「活きた聖母(活聖母)」「活きた聖人(活聖人)」が出現したとの噂も流布した。[傅金鋒、解成、2000年]。
これらの動きは、文革という困難な状況にあっても危険を顧みず、キリストの光のうちに生きようする人々の、揺るぎない信仰の証しに他ならなかった。それはまさに、キリストの永遠の命に生きる信仰者の姿であり、無神論者のもとでの従順を余儀なくされた「愛国会」信徒のそれではなかった。そして、キリストへの信仰が「黒五類」として糾弾される恐怖を圧倒した時、彼らはキリストへの愛を新たにし、それを守り続ける「光」となった。
文革という「闇」は、カトリックをはじめとするすべての宗教にとって「艱難の時」であった。しかし、信仰者たちは神への愛と信仰に生きることにより、「闇」の中で神の愛を証しする「光」として輝きを放ったのである。
【参考論文】
・滄海一粟『荊棘之路:1949-2000天主教在華歴史概要』希瓦工作室(台湾)、2024年。
・傅金鋒、解成「関於河北省天主教地下勢力問題的調査与思考」『前進中的中国統一戦線』第五輯、華文出版社(北京)、2000年。
・文浩(Felix,Wemheuer)『毛沢東時代的真実社会:共産党如何改変中国階級与人民面貌(A Social History of Maoist China : Con Flic Tand Change Flic Tand Change,1949-1976)』台湾商務印書館、2024年。
・宗可光「中国教会史」『天主教在線』2008年(https://bit.ly/44sYzRZ)

中津俊樹
なかつ・としき 宮城県仙台市出身。日本現代中国学会・アジア政経学会会員。専門は中国現代史。主要論文は「中華人民共和国建国期における『レジオマリエ』を巡る動向について」(『アジア経済』Vol.57,2016年9月)など。






