2019年を振り返ったとき、わたしにとって一番印象に残っているのはフランシスコ教皇の来日だ。教皇は、正味3日の滞在期間中に、82歳という年齢から考えればあり得ないほど過密なスケジュールで精力的に各地を回り、10回に及ぶ説教やスピーチを行った。どれも教皇の思いを凝縮したメッセージばかりで、すべてをきちんと消化し、教会の力に変えてゆくためにはしばらく時間がかかるだろう。本稿では、現段階でわたしが理解していることをまとめておきたいと思う。
1 祈りのまなざし
到着直後にバチカン大使館で行われた司教たちとの会合の席で、教皇は今回の来日のテーマである「すべてのいのちを守るために」について以下のように語った。
「すべてのいのちを守るとは、人々のいのちを、愛を込めた祈りのまなざし(mirada contemplativa、contemplative gaze)で見るということ。それらのいのちが、神さまからの贈り物だと気づくということです」
この言葉は、近年教皇が回勅『ラウダート・シ』などの公文書で繰り返している、「すべての被造物のうちに神を見出す」というテーマを教会司牧の文脈において端的に語ったものであり、今回の訪日全体を読み解くうえで重要な鍵となる言葉だとわたしは考えている。この文脈で言えば、「祈りのまなざし」とは、相手のいのちの中に神を見る、イエス・キリストを見るということに他ならない。
相手の服装や身分、地位といったものを見て相手を判断するのが世俗のまなざしだとすれば、祈りのまなざしは、目には見えない相手の本質、「神の子」としての本質を見通すまなざしだと言っていいだろう。そのようなまなざしで相手を見、相手のいのちの中にイエス・キリストが生きているのを見るとき、わたしたちは相手のいのちを守らずにいられなくなる。
教皇がいう「すべてのいのちを守る」とは、そういうことなのだ。単に「いのちを大切にしよう」ということではなく、被造物である相手のうちに神の現存を見出すがゆえに、相手を何としても守らずにいられなくなる。そのような信仰を、教皇はわたしたちに求めている。
「祈りのまなざし」は、わたしたちが直面している、ほとんどすべての問題を解決するための鍵となる。もしわたしたちがすべての隣人の中にイエスを見るようになれば、欲望に惑わされ、傲慢(ごうまん)に相手を傷つけるような言い争いは消え去るだろう。ほぼすべての人間関係の悩みがたちどころに解決し、世界に恒久平和が実現するに違いない。
もしわたしたちが自分自身の中にイエスを見るようになれば、わたしたちはあるがままの自分を愛せるようになり、自己否定がもたらす絶望から解放されるだろう。イエスを宿した自分を限りなく尊いいのちとして受容し、自分と和解することができたなら、自分の人生に確かな意味と価値を見出すことができたなら、そのとき救いが実現すると言ってもいい。自分探しを続けている若者は、そのとき本当の自分を見つけ出して感動の涙をこぼすだろう。
もしわたしたちが、自然界に存在するすべての被造物のうちに神を見るようになれば、地球環境の破壊は直ちに止むだろう。すべての被造物のうちに神を見出し、それらを通して神が語りかけているメッセージに耳を傾けながら行動するようになれば、地上には神の望むままの調和が実現する。神の愛のうちにすべてのいのちが共に生きる、地上の楽園が実現するのだ。それこそ、神がわたしたちに望んでおられることであり、すべての被造物を「支配する」ということの真の意味に他ならない。
むろん、わたしたちが直ちにそのようなまなざしを持つことはできない。教皇もそのことは分かっているだろう。地上的な欲望や感情、損得勘定によって、わたしたちの目は簡単に曇り、自分の目が曇っていることにさえ気づかなくなることがしばしばあるからだ。だが、すべての問題を解決する鍵は「祈りのまなざし」の中にこそある。そのことを知り、「祈りのまなざし」を取り戻してゆくこと、「祈りのまなざし」を目指して信仰を磨き上げてゆくことこそ、神がわたしたちに望んでおられることではないだろうか。
2 教皇のまなざし
わたしは東京カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック関口教会)で行われた「青年との集い」と、東京ドームで行われたミサのときに直接、フランシスコ教皇の姿を見た。ときに疲れたような表情を見せることもあったが、人々を見つめる教皇のまなざしこそ、まさに「愛を込めた祈りのまなざし」だったとわたしは思う。教皇は、出会う一人ひとりをいつくしみ深く見つめ、一人ひとりに向かって本当にうれしそうにほほ笑みかけた。心の底から湧き上がり、相手の心に深く沁み込むような、優しさとぬくもりに満ちた笑顔だった。その笑顔は、わたしたちに向かって、「あなたは本当にかけがえのない存在。神の子なのです」と無言のうちに語りかけていた。教皇の柔和な笑顔こそが、日本人に向けられた一番大切なメッセージ、一番必要とされているメッセージだったのではないかとさえ思える。
人々と出会うとき、教皇が相手のうちにイエスを見ていることは、ほとんど間違いがないと思う。だからこそ、あのようにいつくしみ深く相手を見つめ、大きな愛で相手を包み込んでゆくことができるのだろう。人種、言語、文化、宗教など、あらゆる違いを越えて、すべての人に神は宿っている。その確信が、教皇のまなざしに和解と一致をうながす力、癒やしと救いに人々を導く力を与えているのだ。
かつてわたしは、マザー・テレサのもとでボランティアをしていたことがある。マザーもよくわたしたちに、「貧しい人の中にイエスを見なさい」と言っていた。それがマザーの口癖だったと言ってもいいほどだ。この言葉は、マザーがしていたことのすべての要約と言ってもいい。ぼろぼろに傷つき、汚れた貧しい人の中にも、神々しいほどに美しいいのちが宿っている。思想信条が違う人、自分を攻撃するような人の中にも、イエス・キリストが生きている。
そのことに気づくとき、わたしたちは相手を守らずにいられなくなる。相手のいのちのために、何かせずにはいられなくなる。マザーが世界中の貧しい人々を助け、世界平和に貢献したのは、ひとえにこの信仰によるものだ。もしマザーが人々の中にイエスを見ていなかったなら、単にキリスト教的な義務感によって奉仕活動をしていたのなら、マザーを通して実現したすべての奇跡的な出来事は、きっと起こらなかったに違いない。
フランシスコ教皇も、マザー・テレサも、わたしたちに一つの同じ目標を指し示している。それは、すべての被造物のうちに神を見るということだ。すべての被造物のうちに神を見出す「祈りのまなざし」の恵みを、心から神に願って祈りたい。
片柳弘史(かたやなぎ・ひろし)1971年、埼玉県生まれ。94年、慶應義塾大学法学部卒業後、1年間、コルカタ(カルカッタ)でボランティア活動をしているとき、マザー・テレサから神父になるよう勧められる。2008年、上智大学大学院神学研究科修了。現在、カトリック宇部教会主任司祭。