教会は気持ちの世界
牧会の世界は、その一言で人を動かすことがある。ある神学生が感に堪(た)えないという面持ちで言った話。
彼が牧師となる経験を積むため、実習先の教会で訓練を受けていた時のことであった。ある土曜日のこと、いつものように主任牧師と会堂の掃除をしていた。
すっかり掃除が終わった頃、一人の信徒が慌(あわ)ただしく駆け込んできた。「申し訳ありません。遅れてしまいました」と頭を下げる。その人は、その日の掃除の当番になっていたのである。
すると牧師は、さっきしまい込んだ掃除道具をまた取り出し、掃除を始めた。神学生は「掃除は終わりましたよ」と言いそうになったが、牧師がその信徒と一緒に掃除を始めたので、言いそびれて彼も一緒に掃除をする羽目になってしまった。
二度目の掃除が終わり、牧師と二人になった時、「先生、どうして『掃除は終わりましたよ』と言わなかったのですか」と尋ねた。すると、「せっかく来てくれたのだから」と答えが返ってきた。
神学生はこの話を私にしてくれながら、「牧師は、遅れてきた人の申し訳なさを負ったのですね」と言う。「あなたはとても良い経験をしたね」と答えたのは当然のことである。
牧会の世界は、相手の気持ちを即座に察することが求められることが多い。こちらの気持ちが優先すると、相手の気持ちを察することができなくなる。
ここにあげた話から言えば、「もう掃除は終わりましたよ」と言葉をかければ、それはそれで片がつく。しかし、それだけだと、こちら側の思いを伝えただけで、相手の気持ちは汲(く)み取られないままになってしまう。
「せっかく来てくれたのだから」とは、牧師の側の思いである。しかも、その言葉は神学生に言ったのであって、遅れてきた信徒に直接に言った言葉ではない。牧師は相手の気持ちを、共に掃除をする行動で受け取ったのである。神学生は牧会者としての姿をそこに見て取ったわけで、彼が牧師として身につけるべき牧会者のあり方が、そのさりげない行動を通して彼のこころに強く印象づけられたのである。
教会は、秩序や命令で動くところではない。まして、個人の効率や実績という点から人を見るところでもない。むしろ気持ちが優先するところである。それだけに人々は、どのような気持ちが教会の中で行き交っているかを気にするものである。だから、言った本人はことさら意識していなくても、さりげない言葉や行動で人は感動したり、つまずいたりする。
聖書には「互いに愛し合いなさい」という言葉がある(ヨハネ13:34、15:12、17)。互いに愛し合うとは、互いに仲良くする以上の意味が込められている。
ルターは、「隣人とは最も愛するに相応(ふさわ)しい存在であって、隣人を愛するとは、相手の重荷を負うことである」と言う。「申し訳ない」と思う信徒のこころの重荷を負って、一度終わった掃除を再度繰り返す牧師の行動に、その神学生は隣人を愛する姿をありありと見たのである。