一人のためは、すべての人のため
教会というところには、さまざまな人がやって来る。何十年も礼拝を欠かしたことがない信徒もいれば、通りすがりに入ってきた人もいる。老若男女さまざまな人の集まりである。その集団の中に、誰しもがその人なりに何かしら心に秘めた思いを持ってやって来る。言葉にするか、しないかは別として、感謝、願い、慰め、希望、癒やし、励ましなど、人々が教会に求めるニーズは百人百様。教会は、牧会(カトリックでは司牧)の働きを通してそうした人々に関わってきた。
最近、教会は、カトリック、プロテスタントを問わず、聖職者が不足するようになってきた。よほど大きな教会は別として、少規模の教会では、一人の聖職者が複数の教会を担当するのが当たり前のようになっている。中には三つ四つの教会を受け持っている聖職者も少なくない。
そこに起こる問題は、複数の教会を受け持つと、礼拝は守ることはできても、牧会が難しくなるということである。こうした傾向は、今後ますます顕著になると思われる。これを補うには、信徒の力を借りる以外にない。改めて教会が、信徒の教会形成に貢献する本来的役割に目を向ける必要があるのではないかと考えている。
カトリック教会では信徒使徒職を重視し、信徒もまた使徒としての職務を果たしうるとの見解が、第2バチカン公会議(1962~65年)以降、主張されるようになった。カテキスタ(宣教師を助ける現地の信徒)などの働きは、その一つの例であろう。
宗教改革の意義を基本に置くプロテスタント教会においても「全信徒祭司制」(万人祭司)という理念があり、信徒の力を教会形成に活(い)かすことを教会観の一つとして持っている。つまり、牧師だけが教会形成に寄与するのでなく、信徒も牧師も同じ立場で教会形成に責任を持つということである。
その精神からいえば、人々のニーズを満たす牧会の働きに信徒が加わるのは当然と言うことができる。さらには、信徒説教者の養成に力を入れている教会もある。また、信徒による牧会を考えている教会もある。信徒の力を牧会に活かすような活動が盛んになれば、教会の姿は一新するであろう。
牧会は、「指導」とか「命令」といったような集団統率的な働きではない。人と人が向き合い、一対一で人のニーズを満たすことを基本とする。平たく言えば、膝(ひざ)と膝をつき合わせて一人の人に関わる働きである。この働きが教会という場で波紋のように広がって、影響の差はさまざまであっても、他者のニーズを満たす。
教会は、そのためのガイドブックとでもいうべきものを聖書の中で明らかにした。大勢の人が読む聖書でありながら、「テモテへの手紙」Ⅰ・Ⅱ、「テトスへの手紙」のように、個人に宛てて書かれた手紙が収録されている。テモテやテトスが個人として抱えるさまざまな問題が取り上げられ、それを誰かが読んで我がこととして受け止め、自らの指針としたり、慰めを見いだしたり、励まされたりするので、「牧会書簡」と言われている。また、個人にあてた書簡としては「フィレモンへの手紙」もある。短い書簡で、1章のみで終わっているが、愛について人が抱え込むニーズに丁寧に応えた内容となっている。
牧会──それは一人の人のためでありながら、実は多くの人に影響を与える。牧会の分かち合いとでも言うべきであろうか。