黙して、独り座す
軛(くびき)を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。(哀歌3:28)
「好きな聖句を」と請われると、私はこの句を挙げることにしている。
紀元前586年、バビロニアの侵攻によりエルサレムは陥落し、ユダ王国は滅びた。そのさまを見て詩人が歌った嘆きの歌である。詩人は「黙して、独り座っているがよい」と歌う。やむを得ずそうしたのではない。そうであればこそ希望が見えることを、この詩人は知っているのである。
『夜と霧』の著者として知られる精神科医ビクトール・フランクル(1905~97年)は、「人は意味なくして生きることはできない」と主張した。ユダヤ人強制収容所の過酷な環境の中で、なお生きる望みを失わなかった者と、早々と人生に絶望した者とはどこが違うかを、収容中、紙切れにメモした記録から得た答えが、「人は意味なくして生きることはできない」ということだった。戦争が終結してオーストリアに帰国した彼は、その体験から、こころの安定を失った神経症患者の治療に活かすためロゴセラピー(実存分析療法)を開発した。
人は希望を失い、お先真っ暗になると、自分なりに答えを探し回る。自分の知識や体験の範囲の中だけが答えの在処(ありか)だと思ってしまうのだ。視野は狭くなり、「この人なら」と相談した相手からも期待した答えは返ってこない。
フランクルがたびたび主張するように、「それでも人生にイエスと言う」ため、生きる意味を見いだすためには、自分の立ち位置を切り替えなければならない。「そのとき、今の自分が置かれている状況が自分に何を求めているかを聞かねばならない」とフランクルは言う。つまり、主役を状況に譲って、自分は脇役になるのである。
それはあたかも敗北者のように見えるかもしれない。人は苦難の中に置かれると、それに立ち向かう強さを求める。しかし、極度の絶望の中に追いやられた者は、頑張る力を持ち得ない。
哀歌の詩人はきっとそうであったろう。ならば、いっそのこと頑張らない自分を選び取ったらどうかというのが、この詩人の心境である。その心根が、「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい」という言葉を生んだ。
がっくりと腰を落としたとも見えるこの姿勢の中に、あきらめはない。苦難の真っただ中に、独り座す。その中でこそ、主役である状況そのものが問いかけてくるものが聞こえてくることを、詩人は知っているのである。
心理の世界で「メタ認知」という言葉が用いられることがある。「メタ」とは「上」という意味である。自分を上から見ると、人は自分の生きている世界を俯瞰(ふかん)することができる。自分の生きている環境はどうなっているか、誰とどのような関係を持っているか、今どのような問題を抱えているかなど、広い視野で把握することができる。
言い換えれば、もう一つの自分を持つということだ。このもう一つの自分は、今の自分を外から見る自分である。その自分があってこそ、問題を抱えて苦しんでいても、先を見通して一歩先へ足を踏む出すことができる。哀歌の詩人も、フランクルも、そのような自分を発見するための立ち位置を明らかにした。