「いる」だけを良しとする
教会からほんの200メートルほどのところに自宅がある高齢の教会員のことである。その方は毎週欠かさず日曜日になると、腰を曲げ、杖を突きながらゆっくり歩き、途中で一度足を止めて、道ばたの低い石垣に腰を下ろして一休みしてから教会に来るのであった。この方がつくづく言われたことがある。
「若い人はいいわね。1週間働けば、2日休める。その1日を割いて教会に来る。私は週1回の礼拝に来るのに、6日休んで来る。だから、礼拝が終わって皆が帰るとき、誰からも声がかからないと寂しい」
歳をとると背も低くなり、会衆席に座わると、ますます目立たなくなる。目立つのは、忙しく立ち働いている元気のよい人たちばかり。その人たちの間では、「ご苦労様です」「よくなさるわね」と互いを労(ねぎら)う声が行き交う。
若い時には先頭に立って教会のために働いたであろうこの老婦人のひとことに、私は目が覚めた。以来、私は高齢の方を見かけると、「お元気なお姿を拝見すると、こちらも元気をもらいます」とか、「お顔を見て嬉しくなります」とか、声をかけることにした。
歳をとると次第に、できていたことも、できなくなる。気持ちの上では、若い時のように「できる」と思っているが、実際にはできないことが増える。時には億劫(おっくう)になって、何もしたくないと思うこともある。その行き着く先は、「いる」だけの世界である。
しかし、「いる」だけをよしとする価値観はこの世にはない。この世は「する、できる」ことに評価の重点を置く。しかも、「もっと」「そんなことでは」と拍車をかける。
一方、教会には、この世が評価しない「いる」ことを肯定する価値観がある。マタイ6章26節以下には、このように書いてある。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。……野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。……今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」
空の鳥も野の花も、「する、できる」ことに重点を置くこの世の価値観からは、最も遠いところにいる。何もしないのである。さらに言えば、怠け者であり、役立たずということになる。
しかし、空の鳥は自由に羽ばたき、野の花は美しく咲く。それは、「する、できる」行為の世界に生きていることを象徴する。それらの行為の世界が生まれるのは、「いる」ことが肯定されていればこそである。
聖書は、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と創世記1章31節に告げる。「いる」ことが肯定されれば、安心感が生まれる。安心感が生まれると、おのずと「する」ことが生まれる。空を羽ばたく鳥や、美しく咲く野の花は、その安心感が生み出す「する」ことの世界に、自由に美しく生きている姿を象徴している。
今日、教会は次第に高齢者を多く抱えるようになってきた。高齢者は、生きるための安心感を求めている。やがては「いるだけ」の世界がやって来ることを知っているからである。しかし、何もすることなく、「役立たず」とレッテルを貼られてまで生きていたくないのが本音である。
安心感があれば、その人なりに「する、できる」世界が広がる。これは高齢者だけの問題ではない。「する、できる」世界を失い、この世の評価の外で生きることを余儀なくされた人すべてに当てはまることでもある。
教会は、この世にはないが、教会だからこそ持ち得る、「いること」だけをきわめて良しとする世界を持つ。そこから生まれる安心感が、また何かを生み出すにちがいない。