7月31日は杉原千畝の永眠日

 

今日7月31日は杉原千畝(すぎはら・ちうね)の永眠日です。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人難民にビザを発給し、約6000人を救ったといわれています。

カナウス時代の杉原千畝

早稲田大学在学中より信仰を深め、20代のとき、満州でロシア人女性を結婚するとともに、ロシア正教会で洗礼機密を受けています。聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」。「パヴロフ」は、パウロに由来するスラブ語の姓です。

日本政府に反するこの命がけの行為には、再婚した幸子さんの後押しもありました。憔悴(しょうすい)しきった子どもの姿に幸子さんが目を留めたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」(哀歌2:19、口語訳)という聖句が心に浮かんだといいます。「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く。領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という夫の問いかけに幸子さんは、「あとで私たちはどうなるか分かりませんけど、そうしてあげてください」と同意したのです。

約2カ月、寝る間も惜しんでビザを発給し続けた杉原は、ベルリンへ旅立つ汽車の中でもビザを書き続けました。汽車が走り出して、「許してください。私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と頭を下げると、「私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いします」という叫び声が上がりました。

杉原が発給したビザ

戦後に帰国した後、外務省を退職させられ、不遇ともいえる生活を送ることになりますが、1985年、イスラエル政府による「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞。翌年、86歳で息を引き取る時の幸子さんとの最後の会話は、「君と一緒になって本当によかった」。そして、最後の言葉は「ママは?」でした。

 






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