第五章 岐路に立ち選択するとき
人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。
主の山に、備えあり(イエラエ)(創世記32章14節)
【解 釈】 信仰の父アプラハムは、当時の慣例に基づき、神に犠牲を捧げるため息子イサクを連れて、モリヤの地に赴く。しかし彼は、犠牲として捧げる動物を持参していなかった。息子イサクを捧げるように神に命じられていたのである。そして、かならず長子を捧げると定められていたからである。アプラハムは定めに従い、意を決してあわやイサクに手をかけようとしたそのとき、やぶに角をかけた雄羊がいるのに気づき、息子の代わりに捧げることができた。以来、人々は「主の山に、備えあり」と言うようになったというのである。
人の歩みにはときとして、追いつめられた結果、自分の意に反する選択を迫られることがある。しかし、ふと気づくと、これまでのときの流れのなかに、いつのまにかその選択をよしとする備えがなされているものである。その備えがあってはじめて、その選択に意味が与えられる。気づかないところに思いがけなく人生の歩みの備えがあることを知る大切さを、この言葉は教える。
【こころ】 私が最初に赴任したのは京都の小さな教会でした。まだ三十前でしたから、ずいぶん生意気な説教をしていたと今でも反省をしています。やれサルトル(フランスの哲学者、作家)だの、キルケゴール(デンマークの思想家)だの、分からぬくせにいかにも分かったかのような口はばったい話をしていました。礼拝に来るのはほとんど大学生でしたから、経済的には貧しい教会でした。ある日、中年の紳士が礼拝に来るようになりました。私は、やれやれこれで少しは献金の額も増えて楽になるかもしれないとひそかに思ったのです。その方は熱心に礼拝に出席しておいででしたが、あるときからばったり姿が見えなくなりました。なんとかその紳士が教会員になってくれないものかと思っていた私は、それが気になっていました。しばらく経ったころ、その紳士が牧師館を訪ねてきました。
「先生はお若いから、失礼とは思ったが、申し上げておきたいことがあります」
何事かといぶかしんでいると、「私はさる教会で洗礼を受けました」と言うのです。びっくりするやら、どうしてと残念に思うやら、複雑な気持ちでその言葉を聞いていました。
「なぜ私が洗礼をほかの教会で受けたかを先生に申し上げたかったのです。先生は私
に罪を教えてくださいませんでした」
生意気な神学校出たての若い私は、聖書を語らず、もっぱら実存的な人生論を語って
いたにすぎないことを瞬時に悟らされました。聖書のいう「罪」、それこそ人間の現実であったのに、すっかりそれが抜け落ちていたのです。
私は今でもこの中年の紳士に感謝をしています。牧師はなにを説教壇から語るべきか
をはっきり教えてもらつたからです。アブラハムにとって、やぶに角をかけた雄羊が大
きな救いの転換になったように、私にとってこの紳士は、私の牧師人生に神が用意してくださった雄羊のように思われるからです。
賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より