『精神障害とキリスト者──そこに働く神の愛』(日本キリスト教団出版局)が多くの人の関心を集めている。同書は、月刊誌「信徒の友」に連載されたものの書籍化で、精神障害のある人の声や支援者・専門家の取り組みを通して「教会とは何か」を静かに問いかける。今回、その監修を務めたクリスチャン精神科医の石丸昌彦(いしまる・まさひこ)さんと、連載の担当編集者・市川真紀(いちかわ・まき)さんに話を聞いた。
石丸さんは1957年生まれ。79年、東京大学法学部卒業後、86年に東京医科歯科大学医学部を卒業してから、94〜97年、米国ミズリー州ワシントン大学精神科に留学。99年、東京医科歯科大学難治疾患研究所講師。2000年から桜美林大学の助教授、教授を経て、現在は放送大学教授を務めている。専攻は精神医学。キリスト教メンタルケア・センター(CMCC)副理事長。日本基督教団・柿ノ木坂教会員。最新刊に『神様が見守る子どもの成長──誕生・こころ・病・いのち』(同)がある。
──ご自身の信仰の歩みについて教えてください。
出身地は愛媛県松山市の郊外で、家は曽祖父の時代まで臨済宗の檀家でした。それが、昭和30(1955)年前後に曽祖父が臨済宗の僧侶を呼んで、「自分はキリスト教徒として死ぬから、これまで世話になったけれども、つきあいはこれまでにしたい」と決別し、近所の教会で洗礼を受けました。
その跡取りである祖父も祖母と共にアライアンスの教会で洗礼を受けています。祖父母は早く亡くなったのですが、松山東雲(しののめ)高等女学校に通っていた叔母(父の妹)が洗礼を受け、のちに牧師と結婚しました。その牧師は原忠和(はら・ただかず)といって、自身も牧師の家庭で育ち、同志社大学で学び、のちに日本基督教団の第13代総会議長になっています。
そういうわけで、生まれた時から家の中には聖書があったり、御言葉の日めくりカレンダーがあったりして、キリスト教っぽい雰囲気の中で育ってきました。ただ、両親は当時まだ洗礼を受けていなかったので、時たま叔母の教会に行くくらいで、礼拝出席を続けているわけではありませんでした。
高校時代は、キリスト教は大嫌いでした。なぜかというと、近世以降の歴史を見ると、教会がヨーロッパによる植民地支配のお先棒を担いでいたり、神の名によって政治権力が戦争や侵略を正当化したり、偽善的なところが目について仕方なかったのです。
──気持ちが変わったのはなぜ。
やはり幼い時に曽祖父や祖父から引き継いだものがどこかにあったのでしょうね。医学部に入ってイエス様との出会いがあって、「キリスト教を外から批判するのではなく、教会の中から異議申し立てをすればいいではないか」という気持ちに変わっていきました。本や出会った人の影響もありますが、振り返ってみると家の歴史が大きいですね。
──信仰を証しするために医学の道に進まれたのかと思っていました。
小さい時から、アルベルト・シュヴァイツァーの生涯に強く惹(ひ)かれるところがあり、何かのモラルに裏づけられた医療には憧れていましたが、最初にキリスト教信仰があって、その証しとして医学に進んだなどという格好いいものではないです。医者になろうと思ったほうが先で、医学部4年の時に洗礼を受けました。
──精神科を目指したのは洗礼を受けてからですか。
そうですね。医学部の最終学年の実習で病院の全科を回るのですが、そこで精神科に一目惚(ひとめぼ)れしたというか。それまでは精神科に行くことは考えてもみなかったのですが。
──どこに魅力を感じたのでしょう。
精神科の病棟は、そこで生活をしながら回復をじっくり支えていくという、独特なゆっくりした時間の流れがあります。私は慌(あわ)ただしいのが苦手なので、自分のペースに合っていると思ったことがあります。もう一つは、精神科の場合、患者さんの生い立ちや生活背景、現在の家族関係など、相手を丸ごと見ないと診療にならないのです。患者さんと人間全体としておつきあいすることを、ほかの科以上に求められるところがとても好ましく感じられました。(2に続く)
本紙の用字用語では「障がい」と表記していますが、編集者の市川さんから、この記事でも「障害」とするようにとの要望を受け、「障害」としています。「障害のある人を障害者たらしめているのはその本人によるところではなく、社会の側である」との考えから、「信徒の友」では「障害」としているそうです。本紙編集長自身、右半身麻痺の障がいを持っていますが、現実問題として、「障がい」という言葉にこだわることより、人の思いやりや尊重する心のほうが大切であると考え、柔軟に対応させていただきました。