【毎週日曜連載】神さまが共におられる神秘(88)稲川圭三

暗闇に射し込んだ光

2017年1月22日 年間第三主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
悔い改めよ。天の国は近づいた
マタイ4:12~23

イエスさまが登場されたのを見て、「預言者イザヤを通して言われたことが実現した」とあります(マタイ4:14)。イザヤの預言はこうです。

「闇の中に住む民は
大いなる光を見た。
死の地、死の陰に住む人々に
光が昇った」(マタイ4:15~16)

つまりイエスの登場とは、「光が現れた」という出来事でした。イエスさまは「世の光」です。まさに暗闇に住む私たちの中に光を差し入れてくださったのです。

ところで、「その時から、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」とあります(17節)。このメッセージが「光の到来」であったということになります。

「悔い改め」とはギリシア語で「メタノイア」という単語で、「方向転換」という意味です。私たちの的外れになっているいのちの向きを、根源的に向かうべきところに向け直すことです。

「天の国は近づいた」とはどういうメッセージでしょうか。ユダヤ人は神さまのことを恐れ尊ぶあまりに、代わりに「天」という言葉を使いました。ですから「天の国」とは、「神の国」という意味になります。

「国」という言葉は、ギリシア語では「バシレイア」という単語です。その根本的な意味は「支配」です。ですから、「天の国は近づいた」とは、「神さまの支配がもう私たちのところに近づいた」と言っていることになります。

ところでイエスさまは、その「神さまの支配」をどういうふうに受け取っておられたのでしょうか。私は、「愛である神さまがご自分と一緒の向きで生きてくださる」ということとしてイエスさまは受け取っておられたのではないかなと思っております。

人は本当にその人を愛すると、その人と一緒の向きで生きるようになっていくのではないでしょうか。父である神さまは自分を愛し、自分と一緒の向きで生きてくださるお方であるとイエスさまは理解し、それこそが「神の国」の支配という愛なのだとお分かりになられた。それで今度はイエスさまも、神さまと一緒に生きるという一生を生きてくださることになられたのだと思うのです。

宣教を始める前に、イエスさまはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。するとその時、「『あなたは私の愛する子、私の心に適(かな)う者』と言う声が、天から聞こえた」(マルコ1:10~11)とあります。

私は思います。「愛する子」と呼ばわる神さまは、愛するあまり一緒の向きで生きてくださるお方なのだと、イエスさまはそのように深く出会われたのではないでしょうか。そして、イエスさまご自身もその天のおん父と一緒の向きで生きるいのちを完全に生きられたのです。

だからその後、イエスさまは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われたけれども、それはイエスさまの眼差しを通して父である神さまの眼差しがそこに現れていたのだと思います。すなわち、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言ってくださった神さまが一緒の向きで生きてくださり、その向きで自分も生きることを通して、イエスさまは出会う人一人ひとりを「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」というおん父の眼で人を見るようになって生きられたのです。

これこそ、イエスさまがお伝えになった「神の国が来た」、「神の支配が来た」ということの中身だと思います。

神さまはあなたを愛しておられるのですよ。どれだけ愛しているかと言えば、あなたの中に住んで、一緒の向きで生きてくださっているのですよ。それならば、私たちも方向転換して、その向きで一緒に生きなければならないのではありませんか。

私たちには悪いところがたくさんあります。人に言えないあのこと、このこと、墓場まで持っていかなければならないと思っていることも一つや二つ持っているかもしれません。でも、そんな悪いところもある私たちの最も奥深くに、「愛」である神さまがもうすでに一緒にいてくださるのです。片時も離れず、一緒の向きで生きてくださっているのです。

それならば私たちも、神さまの向きに私たちのいのちを方向転換して生きなければならない。これが、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というメッセージの中身だと思います。

今日も神さまが一緒にいてくださいます。「一緒に生きよう」と言ってくださいます。

そのことができない私たちのために、そのことができるイエスさまが一緒にいてくださいます。そのイエスさまと一緒に私たちが生きるために、イエスさまは今日、ご自分の体を私たちに食べさせます。それによって私たちも、イエスさまと一緒の向きで生きる者となるよう呼びかけを受けています。それに答えて生きるように、ご一緒にお祈りをしたいと思います。

稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

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