苦難や誘惑があっても
2016年2月14日 四旬節第一主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
イエスは40日間悪魔から誘惑を受けられた。
ルカ4:1~13
四旬節の最初の日曜日である今日、読まれた福音は、荒れ野での誘惑です。イエスの洗礼の直後の出来事です。
イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(3:21~22)
イエスさまは誘惑を退けて、人々に教えを宣べ伝える者となっていかれます。ただ、イエスさまの姿は決して、「私は愛された子です。絶対、私はあなたから離れません」といったものではありませんでした。父である神さまの中に自分が入り、ご自分を通して父である神さまが現れる姿で、イエスさまはいつも生きておられます。
しかし、一緒に生きる神のいのちから何とかしてイエスを引き離そうとたくらむ悪魔が誘惑してきます。
一つ目の誘惑。40日の断食を経て空腹を感じられたイエスさまに悪魔は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と言います(4:3)。でもイエスさまは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになりました。
イエスさまは聖霊に満ちて、父である神さまが一緒にいてくださるそのいのちによって生かされていました。そのことをないがしろにして、石をパンにする力を発揮するようなことはなさいませんでした。
自分はパンだけで生きるのではない。一緒にいてくださる神のいのちに結ばれて生きるのだ。これが一つめの誘惑を退けたということです。
二つ目の誘惑。悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬にして世界の国々の権力と繁栄を見せて、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。……もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と言いました。しかしイエスさまは、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とお答えになります(4:5~8)。
権力や繁栄、そういう滅びあるものに頭を下げると、自分も一緒に滅びあるものになってしまいます。それは間違いだ。自分が仕えるべきお方、拝むべきお方は、すべてのものをお創りになられたお方、滅びることの決してないお方、「そのお方を拝み、仕えなければならない」。そうイエスさまは選ばれました。
三つ目の誘惑。神殿の屋根の端に立たされて、悪魔から言われます。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。神が天使たちに命じ、あなたをしっかり守らせると聖書に書いてあるぞ」と。悪魔は聖書の言葉を使ってでも誘惑し、共にいてくださる神さまから何とかイエスを引き離そうとします。しかしイエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになりました(12節)。
神さまとは試すべきお方ではなく、信じて、共に生きるべきお方なのだと、イエスさまははっきりと選ばれました。
悪魔はあらゆる誘惑を終え、「時が来るまでイエスを離れた」とあります(13節)。その「時」とは、十字架の時です。
十字架の時もイエスさまは誘惑を退けられました。イエスさまは十字架の上に釘づけにされていましたが、足もとでは祭司長や律法学者たちが侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(マルコ15:31~32)
「石をパンになるように命じたらどうだ」、「ここから飛び降りたらどうだ」という誘惑に似ています。でもイエスさまは、共にいてくださる神さまから降りることがありませんでした。そして最後に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って、ご自分のすべてを父である神にお返しになられました。
「神である主を拝み、ただ主に仕える」という聖書の言葉どおりにイエスさまは生きてくださいました。悪魔の誘惑に勝ってくださったということです。
私たちは悪魔の誘惑に勝てません。すぐ騙(だま)されてしまう。でも、驚くにはあたりません。人間はそういうものだからです。
でもイエスさまは、悪魔の誘惑に勝つ力を持っているお方です。そういうお方が、聖霊という交わりを通して私たちと一緒にいてくださいます。
洗礼とは、聖霊を受けて、イエス・キリストの霊といのちを一人ひとりの中にいただくことです。そのお方は、私たちの中に立ち上がって、一緒に生きてくださいます。悪魔の誘惑に負けてしまう「自分という人間」に頼るならば、結果は明らかです。
しかし、悪魔の誘惑に勝つ力をお持ちのイエスさまに信頼を置くなら、この世で苦難があっても、信頼して生きることができます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)